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2024

【俺の野球史⑧】

引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。

第8回は、岡野 充希、納谷 健蔵が綴った野球史です。

ぜひご覧ください。


(全16回)

俺の野球史⑧

○岡野 充希(人4/内野手/緑岡)


「帝王と呼ばれた男は...」


父は現在国体や天皇杯に出場する銀行の野球部の監督、叔父は埼玉の山村学園で監督をするなど生粋の野球一家の次男として生まれ、小学校に上がるタイミングで自然に野球を始めました。

小学校のチームは人数が少なく、小五の時にチームが合併し、大きなチームになり、そのチームで一つ上の学年に混じり、セカンド、ショートとしてレギュラーで試合に出場していました。

1番の思い出は、当時県内で1番強かった「茎崎ファイターズ」に勝利した試合で決勝のホームを踏んだことです。

6年生になるとキャプテンになりましたが、エースと4番の同級生が怪我で離脱、試合に勝てず、辛かったのを覚えています。

この頃から高校の部活引退まで、自主練の素振りと腕立てが日課になっていました。


中学に上がると、中学校の野球部に入りました。

一つ上の先輩ととても仲が良く、自分だけタメ口OKという謎の文化がありました。

ユーティリティー性をかわれ、様々なポジションをこなして試合に出場し、県大会ベスト8まで勝ち上がることができました。

勢いがあり、面白いくらい試合に勝て、またチーム仲も良かったため、すごく楽しかったのを覚えています。

先輩が引退してからはキャプテンになりましたが、同級生が自分を含め三人と少なく、後輩主体であったため、いい成績は残せませんでした。


高校は父、叔父、兄の母校で初の甲子園出場を果たしたいと考え、緑岡高校に進学しました。

高校では大きな変化が二つありました。

一つ目は左打ちへの転向です。

高校1年の夏からはじめ、1ヶ月後の練習試合でヒットを打つことができ、2年の夏には不動の3番バッターとなりました。

二つ目は、加圧トレーニングです。高校で加圧トレーニングを始め、体重は今より10kgほど重く、チームで受けた筋力テストでは、現在阪神タイガースにいる西純也投手とほぼ同じスコアを記録したことは今でも自慢です。

高校から本格的にキャッチャーをし、二年生時から副キャプテンを任され、チームメイトに有無を言わせない姿から、「帝王」なんてあだ名をつけられていました。

順調にきていましたが、高校2年の夏の大会1週間前の練習試合で足を骨折しました。

コーチが現実を受け入れられず、骨折直後に捻挫だと言い聞かされ、病院ではなく鍼灸院に連れて行かれたのは、今でも忘れません。

ここからはいいことなしでした。

怪我が治り、状態が上がってきていた時にコロナウイルスの蔓延で、強豪校との練習試合が中止、そこからモチベーションが落ち、あまり記憶がなく、代替大会で負けた試合のスコアすら覚えていません。


部活を引退し、全くしていなかった勉強を頑張り、偏差値30から慶應義塾大学への進学を目指しましたが、縁がなく、兄と同じ早稲田大学への進学を決めました。

不完全燃焼で終わった高校時代の悔しさと兄が所属していたことから準硬式野球部へ入部しました。

大学では今までのように個人としての成績は奮いませんでしたが、多種多様な同級生と先輩後輩に出会うことができました。

「自分たちの学年で全日本選手権優勝」という目標を叶えるため、今自分にできることを考え、残りの期間を頑張りたいと思います。

○納谷 健蔵(商4/捕手/土浦日本大学)


「野球が与えてくれた幸せ」


小学2年生のときに父に連れられ体験に行ったことをきっかけに地元の少年野球チーム「双葉」で野球を始めました。小学生の頃は投手と三塁手をしていました。なかなか試合に勝てませんでしたが速いボールを投げたり、遠くに飛ばしたりするのが楽しくて毎日のように友達と公園で野球をしていました。6年生の時には市の選抜チームの一員としてマリンスタジアムでプレーしたのも良い思い出です。


中学校は地元の常盤平中学校野球部に入りました。この頃から投手と捕手を兼任するようになりましたが、とにかく夏の練習が辛く今思い返してみても信じられないほどの練習量でした。中学2年の時には先輩に全中に連れて行ってもらい良い思いをした反面、最上級生のときにあと一歩で県大会を逃し涙を流したことは今でも忘れられません。ただ総じて充実した3年間だったと思います。


高校進学に際しては思い通りの進路に進むことが出来ず土浦日本大学高校軟式野球部でプレーしました。中学時代とは違い緩い雰囲気の部活で、先輩や同期との野球に対する熱量の差に戸惑いを感じながらプレーしていた記憶があります。高校最後の夏にコロナ禍で行われた独自大会で背番号1を背負って勝てたことは良かったですがどこか不完全燃焼で終えた高校時代でした。


「野球人生の最後を充実したものにしたい」という思いから大学進学に際しては弊部に入ることを早い段階から決めており、新人戦で初めてWASEDAのユニフォームを着た時の喜びというのを今でも覚えています。その後は怪我を繰り返し満足に野球が出来ない日々が続きましたが最上級生になった今年は充実した練習が出来ています。野球好きな仲間と出会えて、弊部に入って本当に良かったです。


いま振り返ってみても私の学生時代はどんな時も野球がありました。野球をやっていたから体験できた嬉しいことや悔しいことがたくさんあり、これらの経験を通じて人間的にも成長でき、野球が人生を豊かにしてくれたと思います。


学生野球も残りわずかとなりましたが来たる全日本選手権では野球人生の集大成として日本一というチームの目標に貢献出来るよう取り組んでいきます。

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