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2024

【俺の野球史⑩】

引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。

第10回は、瀧澤 憲登、宮郷 泰地が綴った野球史です。

ぜひご覧ください。


(全16回)

俺の野球史⑩


○瀧澤 憲登(人4/外野手/早稲田摂陵)


「prime」


私は物心ついた時から野球に触れていました。幼少期は札幌に住んでおり、両親に連れられ、札幌ドームに日ハム戦をよく観に行っていました。周囲は日ハムファンばかりでしたが、当時から変わり者だった私は日ハムファンにはなりませんでした。しかし、現役時代の新庄剛志や、当時から無双状態だったダルビッシュ有の姿を見て野球に興味を持ちました。家の中で紙ボールを打つことから始め、気づけばグローブを買ってもらい、家の近くで壁当てやキャッチボールをしていました。札幌に住んでいる間はチームには所属せず、バッティングセンターにひたすら通っていました。そして、小学校三年生になり京都へ引っ越し、硬式のボーイズチームに入部します。理由は「軟式よりも硬式の方がなんとなくレベルが高そうだから。」という曖昧なものです。「軟式だろうが硬式だろうが上手い人は上手い」ということに、この頃はまだ気づいていません。また、同じぐらいの時期に、兄の見様見真似で中学受験に向けた塾に入ります。しかし、入ってすぐに自分は勉強が好きではないことに気づき、勉強に向いていないことを悟りました。間違いなく私は英才教育を受けていました。一般的な公立の小学校に通いながらも、野球と勉強の両面で周囲とは異なる特殊な環境に入ってしまった私は、人とは異なる環境=レベルが高いという認識をした、プライドが高い勘違いモンスターと化してしまったのです。塾に行くのがとにかく嫌で、何度もやめようと思っていましたが、学校で中学受験をすると言いふらしていたこともあり、簡単にやめることはできませんでした。一方の野球は小学校5年までで、セカンド以外の全てのポジションを試合で守りました。公式戦はあまり出場することができませんでしたが、練習試合の5年生以下の試合でそれなりに活躍したことを覚えています。6年生の時に受験に集中するため、受験が終わるまでチームを離れることになりました。どんな気持ちでこの選択をしたのか覚えていませんが、小学校6年生の最も試合に出場できる時期に野球をやらなかったことは今でも後悔しています。中学受験はもちろん失敗に終わり、入れば早稲田大学に行ける(嘘)と言われていた早稲田摂陵中学校に入学します。


中学では小学校のボーイズの中学部にそのまま上がりました。元プロ野球選手だった方が監督をしているため入部しましたが、もっと別の選択肢を検討しても良かったのではないかと後悔しています。中学時代はあまり良い思い出はありません。毎週土曜に授業があり、父親に学校まで迎えにきてもらい、そのまま練習に行っていました。時には練習試合をしている場所まで行きましたが、試合に間に合わず何もせずに帰宅することもありました。また、私立に通っているという理由で、周囲の人から勝手に「頭がいい」「早稲田に行く人だ」というレッテルを貼られてうんざりしていました。そのため私は野球が嫌いになり、勉強も全くしなくなりました。高かったプライドは消えてなくなり、毎日朝方までアニメを見続け、学校では寝て、とりあえず練習に行くという時間を過ごしました。同級生が試合に出て活躍していても特に何も思わない程には冷めていました。それでも当時投手をやりたいという思いだけは消えておらず、外野手をやりながら投手の練習をしていました。しかし、絶望的にコントロールが悪く、全く試合を作ることができませんでした。結局公式戦ではほぼ登板することなく終わり、何一つ達成しないまま両親に迷惑をかけただけの3年間になるはずでした。転機となったのは3年生の10〜12月頃です。公式戦は8月頃で終わりましたが、引退した3年生に向けたエキシビションマッチのようなものがこの時期に組まれていました。同級生で唯一投手をしていた選手が肩を痛め、消去法で私が登板することとなりました。すると、当時練習していたサイドスローのコツが掴めたのか、ストライクが入るようになります。たまに打ち込まれることもありましたが、ジャイアンツカップで準優勝したチームとの対戦で登板し、奇跡のような勝利を収めました。同じ時期に神宮球場で早慶戦を観戦したことも影響し、中学の最後で野球の楽しさを取り戻し、高校では投手一本で勝負することを決断しました。


高校は早稲田摂陵高校に内部進学し、硬式野球部に入部し、後に大学でも一瞬チームメイトとなる下久保尚哉(令和4年卒=早稲田摂陵)、篠原大成(令和4年卒=早稲田摂陵)、田中創士(令和4年卒=早稲田摂陵)と出会います。一年生の6月に一年生だけで練習試合を行い、5回を無失点で抑え、最高のスタートを切りました。しかし、これが高校野球のピークでした。中学時代に身につけたサイドスローの感覚が鈍り、徐々にコントロールが悪くなり、練習試合ですら登板する機会も減っていました。顧問の先生Aと衝突し、何ヶ月か相手にしてもらえないこともありました。また、登板して炎上した際には顧問の先生Bから「お前のせいで負けたんや!」と言われたこともありました。ちなみにこの時期に早稲田大学への内部進学の道は断たれました。そんな自分を救ってくれたのは早稲田大学出身の当時の監督と直原コーチという方でした。Bチームでも相手にしてもらえなかった私がAチームに帯同することになり、腐ることなく練習に励んでいましたが、コントロールの悪化が止まらず、気づけば投げることが怖くなっていました。そして転機となったのは高校2年の春のB戦です。冬の間に誰よりも走り込みをし、野球に向き合っていた私は覚悟を決めてマウンドに上がりました。炎上という結果に終わり、あまり練習を見ていない顧問の先生Bからの「お前は冬の間何をやっていたんや?」という言葉で心が折れ、野手転向を決断します。バッティングにはそれなりに自信があったため、自分達の代に変わった時に活躍することを目標に練習に励みました。秋の大会の直前、背番号が手に届きかけた頃でした。下久保が投入したマシンのボールが手に当たり骨折をします。届きかけた背番号は幻となりました。しかし、まだ終わった訳ではないため、切り替えて練習に励みます。人生最大のターニングポイントは2年の2月でした。ウエイトトレーニング中にマシンに引っかかっていた金具を抜いた瞬間、右手が血に染まり、小指がおかしな方向を向いていました。そうです。複雑骨折です。その後手術となり、春の大会はもちろん夏の大会にも間に合わない状況となり、完全に心が折れてしまいました。その1ヶ月後にあった関東遠征にとりあえず着いて行きましたが、その状況に同情した監督から「打席立ってみるか?」と声をかけていただき、とりあえず打席に立ちました。もちろん練習はおろか、1スイングもしていません。たまたま打ち頃の球がきたため振ったらホームランになり、本当に嬉しかったです。その後、同級生のスーパースターだった清宮幸太郎(現・北海道日本ハムファイターズ)、安田尚憲(現・千葉ロッテマリーンズ)とチームが一戦交える機会があり、それが数少ない良い思い出となりました。小指が完治していなかったため、このまま復帰とはいかず、5月頃に復帰しましたが、「時既に遅し」で、メンバーの枠に自分の居場所はありませんでした。結局最後までスタンドでチームを見守り、高校野球を終えました。そして新たな目標に一般受験での早稲田大学合格を掲げます。


そして気づけば4年経っていました。浪人時代は特に話すことがないため割愛します。


大学では過去のチームメイトが在籍する準硬式野球に入部しました。4年の関東選手権までメンバー外で、Bチームの帝王と化していましたが、春のリーグ戦の東大戦で初出場を果たし、続く明治戦では岡田和也(スポ4/國學院久我山)の代わりに守備につき、それ以降スタメンで出させていただきました。まさか守備で出るとは思っていなかったのでとても緊張しましたが、自分が応援される側になる幸せな時間でした。また、微力ではありましたが、チームの完全優勝に貢献でき、身に余る思いをさせていただきました。間違いなく今が全盛期、primeです。来月、自分としては初めての全国の舞台になりますが、悔しさを飲んだ高校3年間と憧れを追い続けた浪人3年間。その2つを合わせた背番号『33』を背負って戦います。あわよくば活躍して、今の自分を創ってくれた過去の自分に捧げたいと思います。


両親はもちろん、これまで私の人生に携わっていただいた全ての人に感謝したいと思います。ありがとうございました。特に直原コーチがいなければ本当に今の私はいません。早稲田にも入学していなかったと思います。本当に感謝しています。


最後に、

「人生山あり谷あり」とはよく言われますが、この先の人生にこれ以上谷がないことを祈るばかりです。



                ※写真右下が瀧澤

○宮郷 泰地(法4/外野手/早大学院)


「十六年 一睡夢 一期栄華 一盃酒」

 

私は小学校1年生から野球を始めました。きっかけは、小学校で行われていたお祭りにて、後に所属する小学校のチームが催していたストラックアウトに挑戦し、一列揃えることができたことを周囲の大人に褒められ、「あなたへの特別スカウトです」とばかりに連れていかれたティー打撃が楽しく、また周囲の大人がここでも小学生の私が喜ぶ言葉を重ねてくれたことで、気分を良くした私は入部を決めました。小学1~3年生の間は、怒られることもなく学校の友達と野球で遊んでいるという感じでした。2010年には家の近所で練習していたことから身近な存在だった早大学院の選手たちを応援しに西東京大会準決勝を観戦し、プロの球場で躍動する選手たちに感動し、憧れました。その直後に見た甲子園では劇的な展開も多く、自分も甲子園で野球がしたいという夢を持ちました。このあたりから、複数通わせてもらっていた習い事の中でも野球が一番になっていきました。

 

小学4年生で転校を経験しました。新しいチームでは3年間たくさん試合を経験することができました。周囲の野球のレベルが一気に上がり、野球そのものの楽しさよりも試合に勝つための野球を楽しいと感じるようになったと思います。

 

中学では硬式野球のクラブチームに進み、頑張りました。

 

高校は早稲田大学高等学院に進学し、硬式野球部に入部しました。野球を始めた当初の憧れが頭の片隅にずっと残っており、憧れの学校で甲子園初出場の夢を果たすんだと意気込んでいましたが、入部後すぐに練習中の事故で右腕に全治半年の怪我を負ったのを皮切りに、3年間で厳しい状況に陥ることが多くありました。最後の年である2020年はコロナで大会が無くなり、代替大会は気づいたら終わっていました。甲子園に繋がる野球が好きだと感じていたことから、大学で同等の価値を見いだせる目標が見つけられず野球を辞める選択をしました。

 

大学入学後は一旦野球と距離を置いたものの紆余曲折を経て、新井さん(令和5年卒=早大学院)や春名さん(令和6年卒=早大学院)に誘われたこともあり準硬式野球部に入部しました。小学4年生から高校にかけて、とにかく勝利を求めて練習を重ねてきましたが、準硬式野球部では初めて外野を守るなど野球を始めたての時期のように、野球そのものの楽しさを再確認させられる期間となっています。

 

現役で野球をできる時間は長くないですが、母校の応援など今後も野球に関わっていきたいと思っています。

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