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2024

【俺の野球史⑪】

引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。

第11回は、森 創太郎、安田 晋一朗が綴った野球史です。

ぜひご覧ください。


(全16回)

俺の野球史⑪


○森 創太郎(商4/内野手/片山学園)


「正しい道を選ぶのではなく、選んだ道を正しいものにする」

 

はじめに、わざわざ弊部のホームページまで飛んでくれたあなた、大好きです。古い記憶も呼び起こして書いたので、長いかもしれませんが是非最後まで読んでいただけたら嬉しいです!

 

はじめて野球に興味を持ったのは祖父の影響です。子守唄の代わりに祖父の野球の武勇伝を聴き成長した私は、とにかくボールを投げることが大好きで5歳くらいから父を公園に連れ出して何時間もキャッチボールをしていました。母がママさんテニスを本格的にやっていたこともあり、一度はポスト錦織圭になる道に行きかけます。しかし、当時から絶望的に体力がなく、母を失望させその道を諦めました。


そんな私は小学2年生の冬、小学校のスポーツ少年団「寺家小クラブ」に入部し本格的に野球を始めます。5年生までは、ファーストでのんびりするぽっちゃりした子でしたが最上級生になり運命を変える出来事がありました。投手転向指令です。理由は「体が大きく(すでに173センチ)、ケガしなさそうだったから」。

エースになった私は、チーム練習が終わった後に毎日母とダッシュ30本をするという猛練習でぐんぐん成長しました。その年の6月には北陸3県180チームが集結する大会のスピードガンコンテストで優勝しました。多分これが野球人生のピークだった気がします。

体が縦にも横にも大きすぎて「なんでコーチが試合で投げているの?」と言われたこともありました。他チームの保護者の方に「富山のダルビッシュ」と2回くらい言われ、周囲にチヤホヤされて本当に楽しかった思い出があります。チームは強くはありませんでしたが充実した生活でした。

小学校最後の試合では11個の三振を奪う力投を見せると同時に、サインの見間違いで現ヤクルトスワローズの内山選手に二塁ベースの5メートル手前で盗塁を刺されたことを覚えています。

 

中学校は受験で片山学園中学校に入り、軟式野球部に入部します。しかし、野球の練習があまりできず、反省文ばかり書いている生活に嫌気がさしたので富山中央ボーイズに入ります。

もちろん投手をしたかったのですが、チームに捕手がいなかったためすぐに正捕手になってしまいました。バッティングは奮わず、ファーストファールフライと四球を選ぶスタイルでしたが3年の春に突然開眼し、ある程度は打てるようになりました。秋には同い年の富山県のボーイズリーガーが20人しかいなかったため、定員20人の富山県選抜に選ばれます。本来正捕手の選手が模試で休んでいる隙に練習試合で活躍し、全国大会では3番キャッチャーを任されました。県勢初勝利を収めた試合でもマスクを被り、最後にいい気持ちで引退しました。

 

選抜チームでしのぎを削った仲間が県内外の強豪校に進学する中、私はエスカレーターで片山学園高等学校に進学します。母校の片山学園は本当に弱く(創部10年で夏の大会1勝)、ヤフー知恵袋では「富山県の野球弱小校ランキング」にて見事2位に選ばれています。ちなみに現在は廃部しています。

 

入学早々から正捕手を掴み、中一からの親友ノハラ君と一年生バッテリーを組み春の大会では3年ぶりの勝利に導きます。しかし夏の大会では初戦で0対26の歴史的大敗を喫し、高校野球の恐ろしさを肌で感じました。

沢山書きたいことはありますが、かなり端折ると2年秋のタイミングで主将に任命され、部員数が5人になりました。加えて監督がフランス留学に行ってしまい、チームの運営も自分たちで行っていました。

最後の夏に向けてサッカー部、バスケ部、陸上部から強力な助っ人たちをスカウト。約1年、一緒に練習に励みました。エースのノハラ君をはじめ、セカンドにサッカー部のタナベ君、レフトに陸上部のアラキ君など、野球センスに優れメンタル的にも強い布陣が整い、秋と春の県大会でも惜しい試合を経験していきました。

最後の夏の目標は「コールド負けをせず、9イニング戦う」「3点以上取り、吹奏楽部に得点マーチを吹いてもらう」と、壮行会で話した記憶があります。

そんなチームが延長10回を戦い、助っ人のみんなもヒットを連発し13安打で5点を取りました。

私は母校として3年ぶりの夏の大会での得点となる犠牲フライと、逆転タイムリーツーベースを打ち、その時に二塁ベースから見た景色は生涯忘れられません。

 

10回に逆転サヨナラ負けを喫しましたが、スタンドで感情をあらわにして号泣していたクラスメイトの姿や吹奏楽部のみんなの「ありがとう!」という言葉に、涙が止まりませんでした。

 

そんな形で高校野球を終えた私は、大学野球を見据え筑波大学を受験します。

しかし二次試験の実技の柔道にて、誤って黒人試験官を背負い投げしてしまい浪人が決まります。

1年の猛勉強の末、早稲田大学に合格し「トップレベルの野球をやりたい」と硬式野球部に一瞬入ります。しかしさすがにレベルが違いすぎたため、友達だけつくってすぐに辞めます。サークルの体験なども行ったのですが、「本気で野球がしたい、早稲田のユニフォームで野球がしたい」と思ったので準硬に入ります。

その後、米式蹴球部にいた市川(社4/早稲田佐賀)も弊部に誘います。

私は準硬に入るまで「毎日ハードに練習する」「先輩、後輩、同期とのし烈なメンバー争い」ということを経験していなかったため、タフな毎日を送っていました。

しかし2年の途中くらいから「天井」が見え始め、自分じゃ試合に出られないなと思い始めてしまいました。日々の練習も惰性で取り組み、そんな姿勢では試合で結果が出るわけもありません。

同期には久保嶋(社4/桐蔭学園)や松永(スポ4/早稲田実業)など力のある選手が多く、彼らの活躍を一球速報で眺める日々でした。すっかり入部した時の熱量が失われた私が筋トレに目覚めたのはこの時です。

 

しかし昨年の全日本選手権でチームが敗退した際、メンバーに入っていた同期のほとんどが涙を流した姿、そしてスタンドで応援し全く涙がこぼれない自分をみてハッとしました。

「来年もこれじゃ一生後悔する」と。

いろいろありましたがそこから自分なりにチームに貢献できるかを考え、今春の関東選手権ではメンバーに滑り込むことができました。

 

来月の全日本選手権のメンバーには、残念ながら選ばれませんでしたが、選ばれなかった時の悔しさはこれまで感じたことのないものであると同時に、「自分もがんばったかな」とほんの少しだけ感じました。

チーム久保嶋は強いです、本当に。野球に対する熱量、技術、気迫、執念。

このチームで自分の野球人生を終えられること、本当に誇りに思います。

最後の最後まで粘って、絶対に全日本選手権優勝しましょう。蛯原(スポ4/成城学園)も胴上げします。

 

最後に題名について。

人はよく「過去は変えられない」と言いますが、私は「過去こそ変えられる」と思っています。

それと同時に「人生に必ず正解になる選択肢なんてない」と思います。

私の野球史、人生はわりと紆余曲折があるはずです。

中学校の部活をやめてボーイズに行ったこと、信じられないくらい弱い片山学園で高校野球をすると決断したこと、筑波大学の受験で黒人試験官を誤って背負い投げしたこと、浪人したこと、早稲田大学に運よく入学できたこと、準硬に入ったこと。

どの道も、その時その時でベストの判断をした自信はありませんでした。

でも今振り返ると、周囲の仲間、家族に恵まれて本当に運がよくここまで来たと思います。

「正しい道を選ぶのではなく、選んだ道を正しいものにする」

過去の選択を正しくできるのは自分次第です。

これからもこの言葉を胸にしまい、人生歩んでいきます。

 

あと父と母へ

公式戦を早稲田のユニフォームで打席に立っているのをお見せしたのは、2年生秋の新人戦のゲッツーと記憶しているので、今年の秋はヒットを見せます!

富山から車飛ばしてきて!

○安田 晋一朗(社4/投手/横須賀)


「かけがえのない18年」

 

私が野球を始めたのは父とのキャッチボールがきっかけです。高校までは野球、大学ではソフトボールをしていた父の影響で物心がつく前からボールに触れていました。そして、毎週のように日曜日は父の草野球の応援について行き、父とキャッチボールやノックをして遊んでいました。その後、4歳になるとユメノベースボールクラブに、5歳になるとルーキーズJr.ベースボールクラブに入団し、週に1回、ボールが見えなくなる時間まで、蛍光色に光るカラーボールを追いかけていました。この頃から、父が投手だったことや、『MAJOR』の茂野吾郎に憧れたことから、投手一筋で野球に打ち込むようになりました。

 

小学生になると地元の少年野球チームである東海ベアーズに入団しました。中でも、4〜6年生の頃は、泣きながらノックを受けたり、10周連続のボール回しが終わらず永遠に罰走をしたり、ベースランニングを40周したりと、これまでの野球人生において1,2を争うほど練習がきつく、土日が来るのがとても憂鬱だった記憶があります。ですが、父と二人三脚で努力を積み重ね、6年生の時に背番号1をもらい、県大会でベスト8を果たした時は、何にも代え難い達成感と勝つ喜びを味わうことができました。この時の経験がその後の野球人生を歩む上で大きな経験になったと思います。

 

中学生になると硬式野球のクラブチームである愛知知多ボーイズに入団しました。ここでは、毎週土日と祝日に朝7時から夜19時まで練習に打ち込んでいましたが、今思うとなぜこんなにも練習をすることができていたのか全く理解ができません。ですが、帰宅後は疲れ果てて浴室まで辿り着けず、玄関で爆睡してしまうような、充実した日々だったことをよく覚えています。そして、この頃はレベルの高い同期に囲まれたり、右脇腹の故障をして半年間離脱したりと、中々試合に出られないような苦しい時期が長く続きました。ですが、現在日の丸を背負うような選手と対戦できたり、3年生の夏にボーイズリーグの全国大会と中学最大の大会であるジャイアンツカップという2つの全国大会に出場できたりと、貴重な経験をさせていただいたことは今の自分にとって大きな財産となっています。

 

そして、高校では勉学に力をいれていながら、野球部専用のグラウンドを持つ、愛知県立横須賀高等学校に入学し、野球部に入部しました。有難いことに、1年生の秋から登板の機会をいただき、様々な経験をさせていただきました。ですが、新型コロナウイルスにより高校3年生の春の大会は中止、そして、夏の代替大会は味方投手のワイルドピッチにより2塁ランナーが一気にホームまで帰ってくるという衝撃的なサヨナラ負けをブルペンから見届けることになり、不完全燃焼で高校野球を終えることとなりました。

 

その後、受験勉強を乗り越え、早稲田大学に入学し、早稲田のユニフォームが着たいという思いと、文武両道を実現できるという理由から、準硬式野球部に入部しました。しかし、同期に負けたくないという焦りから右肩の痛みを抱えたまま投げ続け、1年生の冬に取り返しのつかない故障を抱えてしまいました。その結果、約3年経った現在でも公式戦で登板することはできていません。

 

以前、故障に関して同期からこのように聞かれたことがあります。

 

「もし入部前に肩を壊すって分かってたら、準硬に入ってなかった?」と。

 

その時は言葉を濁しましたが、今なら胸を張って「No」と答えます。なぜなら、肩を壊すことよりも、今の同期のみんなと出会えていなかった世界線の方がはるかに怖かったと胸を張って言えるからです。このように思えるほど素晴らしい同期のみんなに巡り会うことができた自分は本当に恵まれているなとつくづく思います。

 

最後に、これまでの野球人生、「好きだから続けてこられた」というような言葉では形容できないほど密度の濃い18年を過ごしてきました。時には監督やコーチを見返したいと思い、時には同期のライバルに負けたくないと思い、また、時には父や母、祖父、祖母にマウンドに立つ姿を見せたいと、様々な感情を抱きながら18年間走り抜けてきました。そんな野球人生も残すところ後4か月。今の自分の使命は「全日本選手権優勝に向けてチームのサポートをすること」、そして、「秋リーグで復帰し、登板すること」です。共に4年間過ごしてきた同期、応援してくれる家族、そして、早稲田のユニフォームを着たいと思い入部した大学1年生の時の自分のためにも、18年間の野球人生を悔いなく終われるよう、残りの期間全力で走り抜けます。

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