引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。
第12回は、小峰 孝太、藤澤 佑成が綴った野球史です。
ぜひご覧ください。
(全16回)
俺の野球史⑫
○小峰 孝太(社4/外野手/早稲田実業)
「初志貫徹」
小3で野球を始めました。読売巨人軍のアレックスラミレスに憧れて、彼の様にホームランを打ちたいと思ったのが原点です。なので野球を始めてからずっと外野しかやっておらず、自分の選択肢に他ポジションはありませんでした。今思えば、いばらの道を行ったなと思います。地元のチームでは自分よりうまい選手がたくさんいました。小4で、同期の投手が流して柵越えホームランを打った時、「野球は無理そうだから勉強を頑張ろう」と決めました。野球を始めたモチベーションがわずか一年でおられてしまったのは不幸なことでしたが、昨日よりも1cmでも打球を飛ばしたいという気持ちは現在でも変わりありません。
中学では受験をして第一志望に合格しました。同期の松永(スポ4/早稲田実業)と藤澤(社4/早稲田実業)にはこの時出会いました。入学直後の松永との何気ない会話で「成績は上位3分の1くらいかな」と聞き、とんでもない文武両道の学校なんだなと感じました。1か月後のテスト返却で真実を知りびっくりしました。中学三年間はいい思い出が全くありません。3年間で総打席数は9(すべて練習試合)だったと記憶しています。一年間に100試合をこなすチームだったので少なさがわかるでしょう。引退後3年間の成績をまとめた紙が配られるのですが、トップの選手と桁が二つ違いました。練習に参加できた記憶もありません。キャッチボールが終わってからはダイヤモンドの中に入らせてもらえませんでした。実力不足と相次ぐ怪我で、中学野球はほとんどをマシン入れとランニングで過ごしました。野球より長距離が伸びるのは野球下手な人あるあるですね。ベンチ入りできずにグラウンドに併設されたプールサイドで応援していたエピソードをいまだに藤澤にこすられます。
中学で限界を知ったので高校は軟式野球部を選択しました。初日からボール回しに参加できて感激しました。高1の秋には野球人生ではじめてレギュラーになりました。最初の打席で満塁ホームランを打ったものの、そのあとは13打席連続凡退で散々な内容でした。しかし都大会3位で関東大会に出場でき、はじめて遠征に参加しました。立派なスタジアムで試合勝利後に校歌を歌えたことは野球人生で一番の思い出です。自分の代では怪我をしてしまったのでほとんど練習できませんでした。当時硬式野球部がよく学校に残っていたので、彼らと文化祭に精を出しました。代替試合では最後の打席で人生初めて「柵越え」ホームランを打てました。
大学は準硬式を選びました。拘束時間が短いので個人練習にたくさん時間を割くことができて感謝しています。チームのみんなには、割と研究者的な自分の嗜好を受け入れてくれて感謝しています。幼い頃に目指したプロ野球選手になるという夢は到底叶うものではありませんでしたが、来年から野球人生で携えたものを手に舞台を金融市場に移します。そこでの自分の奮闘にも注目してください。
○藤澤 佑成(社4/外野手/早稲田実業)
「涙の数だけ強くなれる」
父の影響で幼い頃から野球場に連れられていたため自然と野球が好きになり、父親と公園で野球をして阪神戦を見て寝るという幼少期を過ごしました。
小学生になると1年生から地元の少年野球チームに所属し、あまり人数がいなかったチームだったので、下級生の頃から上級生の試合に出していただきました。高学年になると中学受験勉強のため早退して塾へ泣きながら行くこともありましたが、楽しい野球生活を送りました。
中学は早稲田実業に進学し、少年野球部に入部しました。入部当初は厳しい上下関係や連帯責任を学び、初めて野球が辛いと感じた瞬間でした。最高学年時には、自慢の強肩を武器に松永(スポ4/早稲田実業)専用の守備固めや速球派の投手として試合に出場しました。しかし、夏の大会で松永が中学では見たこともないようなホームランを打たれている中、私はブルペンで準備をしていると球が走ってないから無理だと言われ、投げずに引退となり悔しさから涙を流しました。
高校では軟式野球部に入部しました。人数がいないことから未経験のショートでしたが、1年生から試合に出していただき、秋には関東大会にも出場することができました。2年生の夏の大会では、秋にコールド勝ちしたチームに0-1で敗戦し、人生で1番涙を流しました。最高学年時には主将として常に文句の絶えない小峰(社4/早稲田実業)と後輩に手を焼きながらも全国大会出場に向け練習していましたが、コロナウイルスにより大会がなくなったため不完全燃焼で引退しました。
大学ではもう一度本気で野球をしたいと考え、先輩の鳥越さん(令和5年卒=早稲田実業)や尾坂さん(令和5年卒=早稲田実業)も所属していた準硬式野球部に入部しました。捕手が3人しかいないと聞いて入部しましたが、同期に捕手が6人いたため2年生の時に外野手にコンバートしました。2年生まではデータ班員としての業務が主で公式戦には出れませんでしたが、3年生時には関東選手権で公式戦衝撃デビューを飾ることができました。残り少ない野球人生ですが、全日本選手権で優勝して嬉し涙を流すため、残りの野球人生を送っていきたいと思います。