引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。
第13回は、トレーナーの浅野 広翔、藤原 明音が綴った野球史です。
ぜひご覧ください。
(全16回)
俺の野球史⑬
○浅野 広翔(スポ4/トレーナー/所沢北)
「巡り巡って」
私が野球を始めたきっかけは年の離れた兄の影響で、物心ついた頃には既に野球に夢中でした。幼少期は必ずと言っていいほど、地元の少年団で活躍していた兄の応援に行き、声を枯らしていました。この先私は、ずっと兄の背中を目標に野球にのめり込んでいきます。とにかく幼少期の私は、常に野球が身近にある生活を送っていました。
小学校では地元の少年団に入団しました。間違いなく、私が野球を好きになったきっかけは幼馴染たちと野球をして過ごした6年間です。しんどい練習や指導者からの叱責を辛く思うことも多くありましたが、何よりもチームメイトと喜びを共有したり、一緒に過ごしたりする時間が大好きでした。小学生時代の私にはプロ野球選手と科学者という2つの夢がありましたが、野球に夢中だった私はしばらく科学者という夢を忘れる事になります。
地元中学に進学した私は、幼馴染たちと一緒に野球部に入部しました。慣れない環境に揉まれながらも充実した部活動生活を送っていましたが、2年生になる頃、野球人生に大きな影響を与える出来事が起きます。全国大会準優勝を経験した少年団チームの主力たちが新入生として入部してきました。入部直後にも関わらず、大人のような打球や投球を披露する彼らに圧倒されたことを鮮明に覚えています。「頑張っていれば上級生の頃には主力になれる」と漠然と考えていた私は、完全に淘汰されることになります。自分たちの代になった当初は試合に出ていたものの、時間と共にグラウンドから押し出されることになりました。このタイミングで、自然と「野球選手になる」という夢はどこかへ消え去りました。結局私がレギュラーとして返り咲くことはなく、自分を含め、12人いた同期の多くが試合に出ていない光景を見てスポーツの厳しさを知りました。一方、チームとしては華々しい成績を収めました。引退のタイミングで撮った同学年13人の集合写真では、全員が何かしらの大会の表彰状やトロフィーを手に持てるほどのタイトルを獲得しました。
中学校で自分の実力と現実を知った私は憧れであった川越東高校ではなく、所沢北高校へ進学します。当時の自分は「文武両道」を掲げているからとそれっぽいことを言っていましたが、実際は激しいメンバー争いに打ち勝つ自信がなく文武両道という言葉に逃げただけだと、今振り返ると思います。結局、高校入学してしばらくは野球も勉強も上手くいかず、綺麗に「文武両道」の逆をいく展開となります。努力の甲斐あって1年目の冬が明ける頃に投手として芽が出たものの、ここでも上手くいかないのが私の野球人生です。不必要にプレッシャーを感じてしまい中学時代に一度は克服したイップスを再発します。どうにか外野手として試合に出場していたものの、「とにかく練習すれば報われる」という根拠のない考えに囚われてしまいました。結局無謀な努力を続けて得たものは、腰の大怪我でした。当然野球は出来ず、数ヶ月間は立ち上がることにも苦労するような状態に陥ります。
しかし、これが私にとって大きな転機でした。チームにいながら野球が1ミリもできないというのは初めてでしたが、チームを支える仕事が思いの外、楽しかったという経験が後にトレーナーを選択するきっかけの一つになりました。ここから私の高校野球はほとんどトレーニングルームでの記憶になります。筋トレにハマるのはもちろん、常にリハビリ仲間が何人もいた事もあり、ポジティブな雰囲気の中でリハビリ生活を送っていました。互いにリハビリの様子をチェックしたり、自分の怪我の原因をディスカッションしたりする時間がとても楽しく、自分たちがどうやったらもっと上手になれるかを客観的に分析し、いつもその事について話していました。これをきっかけに自分の中で「みんなの努力を結果に結びつける手助けがしたい」という思いが徐々に芽生えました。約半年のリハビリ期間やコロナ期間を受けて無事復帰を果たしました。リハビリをしても幼少期から染み付いた豆腐メンタルは治らず、夏の代替大会では目立った結果を残せなかったものの最終的には、打撃練習だけは一流選手と呼ばれるまでに成長しました。引退後はトレーナーを目指せる大学の中でも最高峰である早稲田大学を目指し、壮絶な受験生生活を経て無事合格を果たしました。
トレーナーを目指して入学したものの、WASEDAのユニフォームへの憧れを捨てきれず選手として準硬式野球部に入部しました。ここから約半年間は選手として活動しましたが、この期間のことはあまり覚えていません。ただ、とても充実していたことは確かです。
こうして、支える側としての第二の野球人生が始まりました。転身後、しばらくの間はトレーニングやアップの内容を覚えるために、選手の皆に混じってトレーニングを一緒にやっていたこともいい思い出です。山地さん(令和6年卒=大和)の背中を必死で追いかけていく中で、本格的にスポーツ科学と向き合うことになります。ここで、私は幼い頃に忘れた科学者になりたいという感情を思い出しました。科学的根拠やデータを用いてチームサポートをすることは、自分にとって理想としていたトレーナー像とぴったり合致しました。そこからは、死ぬ気で勉学に励んできました。幸いにもトレーナーとして活動する中で師や先輩、同期、後輩たちにも恵まれ、とても充実したトレーナー人生を送れていると感じています。残りの時間は長くないですが、チームの最大の目標である全日本選手権優勝に少しでも貢献できるよう全力でサポートを続けていきます。
私の野球人生は、はっきり言えば失敗の歴史です。いつも大事な時期には何らかのやらかしを経験し、かつて掲げていた目標もほとんど達成できませんでした。しかし今振り返ると、それもそれでいい経験になったのかなと自分では思います。幼少期に兄の応援に行っていなかったら、幼馴染たちと一緒に野球をしていなかったら、中学で挫折を経験しなかったら、高校の時に大怪我をしていなかったら、仲間と時間を分かち合う楽しさや支える側としての楽しさやトレーナーとしての喜びも知ることは出来なかったと思います。結局どの経験も、今の自分を形成するためには一つも欠かす事ができないものであったと思います。自分が経験した苦労や喜びは、様々な人との関わりを介して、巡り巡って人生の選択にポジティブに働いてくれていると、私は信じています。
私は人との関わり方や人生の教訓のほとんどを、野球を通じて学びました。これまでの人生で困難に直面した際には、必ず誰かが手を差し伸べてくれて私を救ってくれました。私は数えきれないほどの人々の助力によって、今の道に導かれたのだと考えています。これからは私が「トレーナー」、更に言うとS&Cコーチとして、人に少しでも希望を与えられる存在になれるよう励んでいきます。
○藤原 明音(スポ4/トレーナー/南山)
「スポーツと共に」
私が野球に興味を持ったきっかけは、小学2年生の頃に地元球団の中日ドラゴンズのセ・リーグ優勝をテレビで見たことです。スポーツ観戦が好きな家族の影響で物心がつく前から野球中継がテレビで流れていることが多く、ナゴヤドームにもよく通っていた記憶があります。当時は森野選手のファンで背番号30のユニフォームにサインを書いてもらい、毎回球場に着て行ったのを覚えています。
中日ドラゴンズの応援をしている内に自分も野球をやりたいと思うようになりましたが、当時テニスに力を入れていたこともあり、本格的に野球をやることはありませんでした。そのかわり毎週末には家族で、2年前に清瀬杯で優勝を飾ったパロマ瑞穂競技場裏の公園でなんちゃって野球をするのがお決まりでした。家族の誰も野球をやったことがなかったのに私のわがままを聞き、ボールを追いかけてくれた家族には感謝の気持ちでいっぱいです。
中学校に入るとソフトボール部に入部しました。入部当時のソフトボール部は人数不足が原因で廃部予定だったらしいですが、私を含め8名が入部したことにより存続が決定しました。そんな状況の部であったため当然強いチームなわけがなく、中学時代の公式戦は1回しか勝ったことがありません。
肝心なポジション決めですが、1番力があったという理由でピッチャーをやることになりました。ソフトボール特有のウインドミル投法は私にはとても難しいものでした。結果、見事ノーコンピッチャーが完成しました。どれほどの試合を四死球で終わらせたかは記憶にありません。チーム事情により中学2年生ではキャッチャーも務めました。人数が少ないがために1試合でどちらのポジションもやることが多かったですが、ストライクが入らないので当時はキャッチャーをやることを懇願していました。しかし、そんな願いが顧問に届くわけもなく嫌々マウンドに立っていたのをよく覚えています。バッティングの方はテニスをやっていたおかげか大の得意でした。スライディングをしたくないがためになるべく大きな打球を打っていた私は、見事4番打者の道を歩むことになりました。
私の学校は中高一貫校だったため、高校でもそのままソフトボールを続けました。高1の頃は他高校と合同チームを組んだり、他部活から助っ人を呼んだりとなんとか人数を集めて試合に出場していました。そんな時、私がトレーナーを目指すきっかけが起こりました。立ち上がるとともに膝に激痛が走り、そこから6ヶ月間の運動禁止生活が始まりました。走っても階段を登ってもダメという生活はスポーツが命だった私にとって地獄のような半年間でした。そんな中、リハビリを担当してくださっていた理学療法士の方がたまたま大学のトレーナーをしているという情報を聞きつけ、私も怪我をした選手をサポートしたいと思い、トレーナーを目指しました。懸命にやってくださったリハビリのおかげで復帰できた私は、なぜかピッチングが安定するようになりました。半年間まともに投げなかったおかげでリセットされたのでしょうか。いまだに理由はわかりませんが、そこからは調子のよい日々が続きました。15年ぶりに県大会出場もでき、普段感情があまり出ない顧問が喜んでくれたのはとても嬉しかったです。
大学に入ると野球に関わりたいという思いから準硬式野球部にトレーナーとして入部しました。いろいろなことがありましたが、トレーナーとしてたくさんの経験をすることが出来ました。2年生の頃には清瀬杯優勝、3年生の頃には全日本選手権ベスト8と高校までに体験することのないレベルの中に身を置けたことは、私の今後の人生においても大変貴重な経験だと思っています。まだまだ現状に満足することなく、全日本選手権優勝、秋季リーグ戦優勝を叶えることができるようトレーナー陣で協力して駆け抜けたいと思います。頼れる同期や頼れる後輩とこのチームをサポートできるのもあと少しです。残りの期間を悔いなく過ごせるよう精一杯チームに貢献していきたいと思います。