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2024

【俺の野球史③】

引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。

第3回は、市川 諒汰郎と岡田 和也が綴った野球史です。

ぜひご覧ください。


(全16回)

俺の野球史③


○市川 諒汰郎(社4/内野手/早稲田佐賀)


「百折不撓」


小学3年生の冬に1学年上の先輩に誘われてソフトボールを始めました。ソフトボールの魅力にどっぷり浸かり、土日しかチーム練習はありませんでしたが、毎日チームメイトと日が暮れるまで白球を追いかけていました。私の野球人生を形作る上で非常に大きな4年間だったと思います。


中学時代は軟式野球部に所属していました。捻挫と骨折のサイクルを繰り返し、ほとんどプレーをした記憶はありませんが、リハビリのために陸上部以上に走り込みを行った結果、長距離走がかなり速くなりました。野球ではまったく必要ありませんが、高校の冬練習を難なく乗り越えることができたので、意味のない努力はないんだなとつくづく感じます。


高校では便利屋としてキャッチャー以外のポジションを全てこなし、スーパーサブとしての立場を確立します。しかし再び故障してしまい、リハビリを続けていましたがコロナ禍で最後の夏はやって来ず、代替大会は3塁コーチの職務を全うしました。チームは気づいたらベスト4まで勝ち進み、試合にはほとんど出場しなかったものの良き思い出として残っています。


大学では紆余曲折を経て準硬式野球部に入部します。中高で負った怪我を抱えて入部したため、最初の1年間は練習できませんでした。そのような経緯もあって、今試合に出場していることを想像していなかったと同級生からよく言われます。


最後の全国大会が高校時代過ごした佐賀県で開催されることにご縁を感じながら、残りの学生野球を怪我なくやりきりたいと思います。

○岡田 和也(スポ4/投手・外野手/國學院久我山)


「然るべき場所」


「甲子園出場」

「慶應義塾大学合格」

これは私が中学の卒業アルバムで綴った将来の夢です。


幼稚園生の頃に女子野球をやっていた母の影響を受け野球を始めました。

後に早慶戦で鎬を削る三宅晋平(慶大準硬4年)と渡邊豪樹(慶大準硬令和6年卒)は恐らく人生で最初の球友です。

当時から私たちは常に3人セット。ほぼ毎日のように遊び、大の野菜嫌いだった私が自分を押し殺し、彼らと嬬恋村にキャベツ合宿に赴いたことさえあります。

そして、あれやこれやあって、いつしか

「3人で慶應のユニホームを着よう」

そんな夢を抱くようになりました。


中学校から高校までは3人全く別の進路であった為、このエピソードは一度しまいます。


中学では、強豪・市川リトルシニアに入部します。ここでは、法外とも言える量のラントレ、飯トレの日々でした。

週末、祝日で連休なんてあれば憂鬱な気持ちに苛まされました。「勤労感謝の日」というのは体育会学生にとっては労うどころか泣きっ面に蜂のような日なわけなのです。

しかし、ここで培った礼儀・心配りや忍耐力はその後のキャリアにおいて遺憾無く発揮されていると感じています。


高校では「甲子園出場」「慶應義塾大学合格」を同時に実現する為、國學院大學久我山高校の門を叩きます。学校のスローガン「きちんと青春。」なんて一度も感じたことはないし、むしろ泥臭い学園生活が待ち受けていました。

スマホを使えない片道2時間の通学や朝から晩まで足を揃えてトラックを駆け回る自衛隊のような合宿、気づいたらクラスメイトの大半が坊主になっていました。正直、部活なんかよりも学校生活の方がよっぽどスパルタでした。

野球ですが、あれやこれやあって最後の夏の西東京予選では大会最多安打、準決勝・決勝戦で決勝打を放つなど28年ぶりの甲子園出場に貢献しました。

甲子園では優勝経験を持つ前橋育英高校に見事な集中打で、学校として悲願の初勝利を果たしました。

2回戦敦賀気比戦ではエラーや三振などをし、「東京の恥」「エラーしたのにニヤニヤすんな」と界隈でスレッドが立ちましたが、それらを含めて大変貴重な経験をさせてもらいました。

一方で勉学ですが、事情があり12月から受験勉強を始め、到底志望校に届くわけもなく浪人生としての道を歩み始めます。ちなみに浪人を悲観したことは一度もありません。甲子園球児で浪人生はむしろレアだったからです。


浪人期には毎日10時間以上の猛勉強、週14回ジムに通い、学業成績の向上はもちろん、30kgの増量にも成功しました。

全ては慶應のユニホームを着て早慶戦(当時は慶早戦と呼んでいた)で大活躍するため。

結果は、、、不合格。

悔しいなんて微塵も思いませんでした。どんなに辛い時も一つの目標に向かって10年以上にわたり頑張れた自分を誇らしく思いました。

幼少期からの夢である慶應義塾大学合格は果たせませんでしたが、ライバル校である早稲田大学に合格し、「打倒慶應」という反骨精神を持ち大学生活がスタートしました。


大学では長く続けてきた大好きな野球をまだまだ続けたいと思った一方、浪人期に「本気で勉強に向き合った」経験から、色々なことに挑戦したいと思い、その両立ができる準硬式野球部を選びました。入部当初に周囲からの大きな期待に応えようと、「自分にないものをあるようにみせる」というラベリングをして、自分を苦しめていました。ここでもなんやかんやあって、次第にチームプレーに徹するようになり結果が出るようになりました。

清瀬杯優勝、リーグ戦優勝と今までの野球人生で一番の戦績を残すことができました。


そして何よりの幸せは、同じ日に野球を始めた晋平と豪樹と再び早慶戦の大舞台でプレーできたことです。全日本選手権で彼らの大活躍により負けた試合、慶應に勝ってリーグ優勝を果たしたこと。

私の然るべき場所は準硬式野球だったのです。

ここでようやく序章・題名の伏線が回収されるわけなのです。

私が今準硬式野球部でプレーしているのは彼らあってこそ、紛れもない事実です。ありがとう!


兎にも角にも大好きな野球人生も残すは半年。

順風満帆すぎるこの人生であと一つ望むとするならば、、、

「慶應を倒し秋季リーグ戦優勝」

この想いただ一筋である。

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