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2024

【俺の野球史②】

引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。

第2回は、大澤 龍登と笠井 駿汰が綴った野球史です。

ぜひご覧ください。


(全16回)

俺の野球史②


○大澤 龍登(文構4/投手/星野)


「文武両道の極み」


父が野球をやっていたということもあり、小学2年生のときから地元の少年野球チームに入りました。父がコーチとなり、毎日指導される日々、史上最弱の代だったということもあり、野球の面白さは遊びでやる羽打ち野球でしか感じていなかったと思います。歳を重ねるにつれ羽打ち野球の球場は場所を変え広くなり、バットもプラスチックバットから木製バットへ握り変えていました。素振りは嫌いだったので、ずっと壁当てをしていた覚えがあります。

どんなに負けても、打たれても投げ続けたため、自身の粘り強さというものはここで形成されたのではないでしょうか。記念すべき最初の練習試合は36-0で敗戦いたしました。小6の夏以降は市の選抜チームに選出され徐々にチームも勝てるようになっていきました。

 

中学では学校の軟式野球部に入部しました。下級生の頃から試合に出場させていただき、地区大会優勝や地区の選抜チームに選出されるなどしましたが、最後の大会は初戦敗退。受験勉強に切り替えたと同時に、高校野球をやるという決断をしました。当時のことはあまり覚えていませんがあっという間の3年間でした。その頃から早稲田大学へ憧れを持っていましたが、早稲田大学本庄高等学院不合格。敗因は二次の面接でしたが、当時から面接は苦手だったのだと思います。そんなこんなで中学生活は終わりを迎えました。

 

文武両道を目指し、星野高校に入学しました。初めてレベルの高い環境に身を置き、毎日走らされる日々。高校野球の厳しさを痛感しました。小中ではエースで4番でしたが、高校時代は二番手に終わり、ここで初めて挫折を味わいました。コロナの影響もあり、夏は代替大会となりましたが、初戦は先発を任されました。サイレンが鳴り止まぬ間に頭部死球。ここから7期生の快進撃が始まり、創部初の県ベスト8を達成することができました。高校時代は毎日4時半起きをしていたなんて信じられませんが、両親には感謝しています。

 

憧れの早稲田大学にリベンジを果たし、入学後は準硬式野球部に入部しました。野球部への入部を勧められましたが、様々な理由から準硬式という選択をしたことに後悔はありません。リーグ戦中のブログでも記させていただきましたが、下級生の頃から「優勝」や勝つ喜びを味わうことができたことが準硬式を選択して良かったことだと感じていますし、それを叶えてくださったたくさんの方々に感謝したいと思います。学生として野球ができるのも残り約5ヶ月となりましたが、全日本選手権、秋季リーグ戦を最高な形で終えられたらなと思います。そして最後には必ずこれまで支えてくれた方に感謝して約15年の野球人生を締めくくりたいと思います。

○笠井 駿汰(政経4/内野手/早大本庄)


「原動力は『感謝の気持ち』〜人間力を培った13年の野球人生〜」


小学3年生時に野球を始めたが、きっかけは甲子園決勝を見たことだった。父の影響からサッカーに興味を持ち、用品も全て揃えた翌日「おれは野球がやりたい!」と我儘をいった日から今日まで、白球を追い続けてきた。

人数の少ないチームだったが故に、入団初日からセカンドやライトのスタメンを獲得。人一倍経験だけは積ませてもらい、小6時には地区を代表するスラッガーに成長した。


中学では、地元の部活動か、推薦をもらった2つのシニアか何度も迷い、秩父リトルシニアに入団した。毎日死に物狂いでバットを振り、1週間のスイング量は4000を超えることもあった。1年時より1人だけトップチームに入れてもらい、様々な経験をさせてもらった。中2時には、選抜で台湾遠征を経験し、この経験が後の人生を形作る大きな経験ともなった。

高校選択の際には、県内私立をはじめとする10校以上のスカウトから特待生入学することも迷ったが、WASEDAのユニホームを着て野球をしたいという強い思いで、早稲田大学本庄高等学院を受験し、入学を果たした。


高校では、これまでの順風満帆な野球人生ではなく、苦労や挫折といえる時期だったのかもしれない。初めてボールが投げられない大怪我を味わった。ウエイトをしたら怒られ、ホームランを打つと怒られるといったこともあり、これらの経験から「求められる場所で自身の価値を最大限発揮すること」の能力を培えたと思う。ポジティブに捉えれば、素晴らしい経験だったと思う。


大学では、仲間や先輩、指導者にも恵まれ、2年春の関東選手権にて3番DHでデビュー。東北遠征六大学選抜副将、関東JUNKOオールスター大会2023の六大学選抜にも選出され、関東王座決定戦準優勝も果たした。一方で、試合での勝負だけでなく、下級生から出場させてもらうプレッシャーとの勝負という、自分との戦いもあった。


3年秋のリーグ戦は打率.261と不振だったものの、対立教との優勝決定戦で打ったホームランは今でも記憶に刻まれている。昨年までご活躍された、西村さん(令和6年卒=早稲田実業)、蒲原さん(令和6年卒=神戸)を筆頭とするデータ班、春名前主将(令和6年卒=早大学院)をはじめとする4年生への感謝の気持ちが形となった、今でも忘れないホームランだ。自身の当時の力では到底打てなかったと思う。4年生への感謝の想いや、ベンチ、スタンドの声援が打球を運んでくれたからこそ、一生忘れられないホームランである。


4年生になってからは、怪我や打撃不振もあり満足いく結果は残せていない。それでも、未来ある後輩たちが、伝統あるWASEDAを背負い、輝かしい結果を残し続けられるように少しでも貢献したいと思う。


『感謝の気持ちを力に換えて』

中学生当時のリトルシニアのスローガンだ。

野球に出会い、人生が変わり、『感謝』の気持ちだけでこれまで何事にも挑戦し、結果を出してきたつもりだ。これからの人生も、『感謝の気持ちを原動力』に。日本だけでなく、世界を舞台に、恩返しできるよう挑戦し続ける。

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