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2024

【俺の野球史⑭】

引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。

第14回は、阿部 錬次郎、大野 真宙が綴った野球史です。

ぜひご覧ください。


(全16回)

俺の野球史⑭


○阿部 錬次郎(人4/投手/保谷)


「西東京一筋」


小学校2年生の時、兄が入団した地元の少年野球チーム「ホワイトイーグルス」で、なにやら楽しそうにしている人たちをみて、後を追いかけるように入団し、私の野球人生が始まりました。兄弟で1番野球が下手だった私が大学まで野球を続けているとは夢にも思いませんでした。野球が何なのかよくわからないまま始めたので、最初のうちはただ大勢でわいわいする時間を楽しんでいました。このスタイルは今でも変わらず、僕の原点となっています。5年生の時から、ピッチャーをするようになりましたがフォアボールを出す度に、チームの指導者であった父親に怒られていたので、とにかく怒られたくない一心でマウンドに立ち続けていました。いつの間にか制球力が持ち味の、安定して試合を作れる投手になっていました。また、鈴木勇介さん(令和6年卒=桐朋)がいた同じ市内のチーム、芝久保ドラゴンズとは何度か対戦したことがあり、大学で再会した時、当時のことを覚えてもらえていたことが嬉しかったです。


中学では、田無第四中学校の野球部に入部しました。ここでは、野球をしていた記憶がほとんどありません。野球のユニフォームを着て、サッカーやバスケに興じ、たまに野球っぽいことをしていました。おおよそ野球の基礎がつくられるであろう大切な時期を、ここで過ごしたことをほんの少し後悔していますが、四中野球部の心優しい仲間とともに穏やかな中学時代を送れたことが救いです。


高校は家から自転車で10分の場所にあった保谷高校に進学し、硬式野球部に入りました。

高校ではサードがしたかったのですが、練習初日に当時の先輩からファースト行きを命じられた瞬間から3年間ずっとファーストでした。不本意ながら始めたファーストは、自分の身長が活かされ、なにより難しい送球を捌いた時の快感もあり、すぐに気に入りました。学校生活も非常に順調で、大変愉快な人たちがいたおかげで毎日学校にも部活にも行きたいと思えるほどに楽しく、どの瞬間を切り取ってもいい思い出しかない、そう思える時代でした。充実した日々の最中、身体に不調が起きました。高校3年生の春頃に授業後の練習でボールが何故か二重になってみえるようになったのです。はじめはテスト勉強に備えて一夜漬け生活を続けていた影響かと思っていましたが、病院で検査を受けたところ、少々厄介な病気に罹っていることがわかりました(後に回復しました)。以降、投薬を続けながらの野球生活となり、万全な状態で野球をすることが出来ませんでした。そんな中、最後の夏の大会が始まり、九番ファーストで出場はさせてもらえていたものの、個人として結果を出すことは出来ませんでした。もはや足を引っ張っていたともいえます。しかしながら、チームのみんなが頑張ってくれたおかげで西東京ベスト16という公立高校としては十分な結果に終わり、満足して引退することが出来ました。


大学では、サークルは自分の性には合わないだろうと考え、とにかく部活に入ろうと決めていました。練習場が家から近かったことと、小学生の時にお世話になった経緯があったので準硬式野球部に入部しました。また大学からは新たにピッチャーを始めることになりました。バッティングが苦手だからというネガティブな理由で始めたピッチャーでしたが、ピッチングも苦手ということにも気づいてしまいました。最も苦い思いをした試合は2023年3月4日に行われた日吉での早慶戦です。この日、先発を務めた私はいつも以上に炎上し、野手の集中力を早々に切らしてしまいました。そして、とうとう一人の選手生命が絶たれる事故の原因となるに至りました。詳しくは、後日掲載される宮﨑主務(スポ4/修道)の野球史ブログをご覧ください。そんなことがありながら、この試合以降も懲りずに炎上を続けてきました。野手のみなさんには後ろを守ってくれることへの感謝の気持ちと、登板中は暇にさせてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいです。特にキャッチャーには日常的に膝をつかせてしまっていてすみません。

現在の私の目標は全日本選手権優勝に向けてサポートをすること、秋のリーグ戦に登板することです。いよいよ引退が見えてきた今日この頃ですが、もう少し悪あがきをして、なんとか爪痕を残したいと思います。


最後に

平凡な私が、常に今が一番楽しいと思える生活を送れているのは、野球を通じて素晴らしい仲間に出会えたからです。私にはキラキラとした経歴も大した実力もありませんが、いつも周りに良き友人がいてくれました。それだけが私の誇りです。あとは一貫して、西東京市で野球をし続けたことくらいでしょうか。この部活に入って、同期のみんなとは数え切れないほどの思い出を作ることが出来ました。記録に残るもの、記憶にしか残せないもの、そのどれもが私の宝物であり、今後の人生の糧になってくれると信じています。みんなと野球ができるのもあとわずかとなりました。少しでも多くの良い思い出を残せるよう、大好きな野球に全力を注いでまいります。部員の皆様、どうか最後までお付き合いください。

○大野 真宙(人4/投手/昭和)


「燃えよドラゴンズ」


小学生の時に友達に誘われて地元の軟式野球チームに所属しました。当時はとにかく友達と野球をすることが楽しかったです。物心ついた時には当然中日ドラゴンズを応援しており、家に帰っても野球のことで頭がいっぱいでした。


中学ではボーイズリーグの硬式野球チームに所属し、関東大会出場・ZETT杯準優勝など、チームの仲間と試合に勝つ喜びを改めて感じました。指導者にも恵まれ、野球の技術や思考などは、中学で培いました。3年時には、捕手として西東京選抜の選考に内定し、自分自身の実力に自信を持つ大きなきっかけとなりました。小中は父と二人三脚で野球に打ち込み、ここまで野球に熱を注げたことに感謝しています。


高校では都立昭和高校の野球部に所属し、3年時には副主将を務めました。1年上の先輩たちは、最後の大会で阿部錬次郎(人4/保谷)擁する都立保谷高校に負けてしまいました。正直もっと上を目指せるポテンシャルのあるチームだったので、自分が捕手として頼もしい存在であれば一捻りだっただろうと、悔しさでいっぱいでした。その気持ちで臨んだ最後の一年は、新型コロナウイルスの蔓延で甲子園が中止になり、悲しかったです。


大学では準硬式野球部へ見学に行った時に、雰囲気の良さに魅力を感じ、入部を決めました。捕手として高校最後の夏の悔しさを晴らそうという気持ちでいっぱいでしたが、気がついたらP革のついたスパイクを履き、投球練習をしていました。この4年間の記録としては、0回0/3、7失点と2打数7打点が印象に残っています。


自分自身、野球をしていなかったらこんなに恵まれた人生では無かったと思います。それほど濃密な野球人生でした。

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