引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。
第7回は、空閑 悠馬、村上 翔祐が綴った野球史です。
ぜひご覧ください。
(全16回)
俺の野球史⑦
○空閑 悠馬(社4/投手/早稲田実業)
「燃える男」
私が野球を始めたのは小学校低学年の頃だったでしょうか。クラスメイトに誘われ、野球を始めました。練習は週1回1時間のみでほとんど遊び感覚だった気がします。小学生時代に投手として初登板を果たしましたが6失点とプチ炎上しました。週1回しか練習をしていないことと体がとても細かったことが影響したのか、地元のクラブチームで野球をやっているクラスメイトには馬鹿にされていたのを覚えています。そのため、野球の会話に入ることを避けていました。祖父母の家が長野県にあり、祖父母の家に行くたび家の近くの山を走っている篠ノ井高校野球部の姿を見て、当時は篠ノ井高校の野球部に入るんだと勝手に思っていました。
中学では軟式のクラブチームに入りました。調布市で主に練習を行うチームでしたが、1つ上の先輩は1人、同期は4人という少なさで合同チームとして荒川区の方で試合に出ていました。コールド負けなんて当たり前の超弱小チームだったのを覚えています。入部当初は、人数が少なかったので下級生から試合に出られるのではないかと思っていましたが、とんだ思い違いでした。印象に残っているのは、10人しか集まらなかった試合で1人ベンチを温めたことです。守備固めとしてセンターの守備につき、後逸して決勝点を与えたこともあります。3年になり、ようやくレギュラーになることができました。ところが、都大会を懸けた試合で先発し、2回10失点でコールド負け。荒川を燃やしました。
高校は早稲田実業に進学しました。練習初日、村上(商4/内野手/早稲田実業)と自分だけ坊主ではなかったので、顧問に怒られました。また、初日のブルペンでは投球数の半数以上をブルペンの屋根にぶち当て、監督を怒らせた結果、初日から顧問と監督に怒られるという偉業を成し遂げました。お互い場違い感のすごかった村上とキャッチボールのペアを組みましたが、周りのあまりのレベルの高さに初日から絶望したのを覚えています。ベンチ入りを目指し、練習に励みましたが、結局3年間ベンチ入りどころかAチームの練習試合すら出ることができませんでした。引退試合で初めてWASEDAのユニフォームに袖を通しましたが、1/3回3失点で途中降板。神宮を燃やしました。
大学では髙橋隆之介さん(令和6年卒=早稲田実業)、宮内さん(令和6年卒=早稲田実業)が所属していたこともあり準硬式野球部に入部しました。少しでも選手としてチームに貢献したいと思っていましたが、それも叶わず、篠ノ井に住む祖父母にWASEDAのユニフォームを着てプレーする姿を見せられなかったことはとても悔やまれます。
これから、全日本選手権に向けて精一杯選手をサポートしていけるように頑張りたいと思います。
○村上 翔祐(商4/投手/早稲田実業)
「有終の美」
2009年のWBCを観てプロ野球選手に憧れ、小学校2年生の時に地元の野球チームに入りました。正直なところ小学校の頃の記憶はあまりありませんが、野球人生の礎になったことは間違いありません。
中学校はユニホームが真っ青でとても特徴的な東京都市大学付属中学校に進学しました。中学3年間で身長が30センチ伸び、成長痛によりまともに歩くことができなかったので、あまり野球をした記憶はありません。
高校は早稲田実業に進学しましたが、実力不足で一度もベンチに入ることは出来ませんでした。毎日練習が終わった後、夜の11時まで自主練をしていたので、とても楽しかったです。しかし、コロナウイルスのせいで秋大会と春大会、甲子園は中止になってしまい、不完全燃焼だったのと、高校で仲が良かった人たちがみんな準硬に入ったので準硬式野球部に入りました。
準硬式野球部では、幸運が重なり野球人生で初めていっぱい試合に出ることが出来ました。そして清瀬杯優勝やリーグ戦も2回優勝することができ、とてもいい思いができました。感謝しています。最後の全国大会である全日本選手権、みんなで優勝を掴み取り、有終の美を飾りたいと思います。