引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。
第6回は、鈴木 悠矢、中澤 勇之助が綴った野球史です。
ぜひご覧ください。
(全16回)
俺の野球史⑥
○鈴木 悠矢(スポ4/外野手/水城)
「白球を追い続けて」
小学生の頃、放課後におじいちゃんの家で巨人戦を一緒に見ていたことや、パワプロ13で遊んでいたことが私の野球人生の原点です。その後しばらくして5年生ぐらいのときに中郷野球スポーツ少年団で野球を始めました。現在、ユニフォームのモチーフである大学で野球をしていることを考えると感慨深いです。試合での最初の打席は見逃し三振だったと記憶していて、当時から今に至るまで、打席での緊張感は悪い意味で変わりません。指導者の方にのびのびと野球をさせてもらった中で、上手にプレーができたり、勝つ喜びを感じたりと野球の楽しさを存分に知ることができました。
北茨城市立中郷中学校では、野球部に入りました。私は中学生まで帽子の上にヘルメットをかぶるスタイルだったようです。ダサいですね。
入学して間もない頃、破ると1日部活動が停止になる完全下校時刻を守れなかった同級生が翌朝、金網のフェンス越しに先輩に厳しくお叱りを受けていた光景を鮮明に覚えています。その他にもあった中学校特有のルールに困惑しながら生きていました。
そんな中、往復40分以上の自転車通学と、完全下校時刻を守るためにグラウンドから校門へのダッシュを繰り返す日々を送った結果、野球の実力ではなく、陸上のタイムが伸びました。
400m走で市内1位になり、県大会に出場するなど野球よりかは向いていたかもしれませんが、練習のしんどさと、負けた時に感じたどうしようもなさが嫌で陸上からは逃げました。
そして肝心の野球ですが、新人戦や総体といった主要大会全てで最後の打者になるなど、チームのみんなの足を引っ張ることが多々あり、もう同じステージでやっていくのは無理だと感じたことから高校で野球をしようという考えは無くなりました。
ただ、とても良い先生と出会い3年間活動できたことはとても幸運に思っており、結果的に大学まで続けていることを考えると重要な時期だったと感じます。また、小中はほとんど同じチームメイトだったこともあり、少年団のころから長い間お世話になった父兄の方々にも感謝しかありません。
高校は水城高校に進学。野球をやるつもりはありませんでしたが、とりあえず見学してみた軟式野球部が楽しそうで結局すぐに入部しました。試合では、2年生の時に出場した関東大会で慶應義塾高校に完敗したことが印象に残っています。最後の年はいろいろあって不本意に終わりましたが、多くの試合を経験できたことは良かったと思います。人数が多い高校で、なんとなく入部した軟式野球部を通じてできた縁を今後も大切にしていきたいです。
大学では、高校の先輩がプレーしていた準硬式野球に興味があり体験に行きました。体験初日、先輩方や同期の実力を見てこのチームではやっていけないと思ったことをよく覚えています。入部後も周囲とのレベル差は歴然で、自分が客観的に見てチームで一番下手でしたが、ある日とある4年生の方が、「俺は高学年になってようやくメンバーに入れたから、4年生でメンバーに入れるように頑張ろう」と仰ってくれました。何気ない練習中の一言でしたが、この言葉を糧にこれまで辞めずに続けることができ、少しずつ試合に出るまで成長できたと思います。また、リハビリや、トレーニングに付き合ってくれたトレーナーのおかげで怪我が多くなってもなんとか野球を続けることができています。いつもありがとうございます。
そして大学4年生まで10年以上軟式ボール、準硬式ボールという文字通りの「白球」を必死に追いかけ続けてきた結果、外野を無難に守れる、ということだけが私の野球選手としての長所として残りました。引退後、長いこと野球をやっていたのか疑われるような人間ですが、まあ自分らしいし悪くないかなと思っています。
全日本選手権は、今年のチーム、そして自分の野球人生の集大成になります。友人の市川くん(市川 諒汰郎/社4/早稲田佐賀)は、佐賀の地で4年ぶりに涙を流したくないと思いますし、こちらとしてもそんな姿は見ていられませんので、そんなことにならないよう、結果を出すために精一杯を尽くします。
野球人生で思い出すのは苦しかった、悔しかった経験ばかりですが、やっていてつまらないと思ったことは1度もありません。楽しくて仕方がない、大好きな野球をするのもあとわずかです。残念ながら誰かの思いを背負えるような器量、実力はありませんが、自分の最善を尽くし、昨年ベンチで負け試合を見ていることしかできなかった悔しさをチームのみんなと晴らしたいという思いです。
○中澤 勇之助(商4/内野手/金光学園)
「勇往邁進」
私と野球との出会いは幼稚園の頃、父がファミスタで遊んでいるのを見たことがきっかけでした。そこから野球の魅力に取り憑かれ、小学1年時に地元のスポーツ少年団に入団しました。この頃は荒木モデルのグローブを片手に、平日も真っ暗になるまで両親と練習をしていました。
小学2年生の冬、引っ越しをきっかけにリトルリーグに入団しました。実はリトル時代、私の宿敵である宮﨑玲太(スポ4/修道)率いる広島西リトルに敗北してしまいました。その借りは今ゴルフのスコアで返しています。リトルに入団してからチームの人数が年々減少してしまい、チームの存続が難しくなり、小学5年時にお隣のスポーツ少年団に入団しました。
小学生時代は軟式→硬式→軟式と異例の野球歴となってしまいましたが、多くのかけがえのない仲間や指導者の方々、保護者の方々に出会うことができました。この頃の夢は、PL学園で春夏連覇することでした。
続いては中学時代です。中学ではヤンキース岡山という地元のクラブチームに入団しました。同期が18人いたのですが、身体がチームで1番小さく、毎日ご飯を食べることに必死でした。今となれば、1kgのタッパー弁当を泣きながら食べていたのもいい思い出です。毎週バスで県外に遠征に行ったり、全国大会で優勝したりと楽しい思い出が多い一方で、多くの学びも得ることができました。強豪だったこともあり、自分自身なかなか試合に出ることができず、悔しい日々が続いていました。でもこの悔しさがあったからこそ、ここまで野球を続けてこられたと思っています。試合に出られなくても野球は楽しいし、試合に出ることだけが野球の全てではないということを身をもって学ぶことができました。こういった経験を中学野球でできたことは自分の人生において、大きな財産となりました。
そして高校野球です。高校では金光学園高校で野球をしました。毎朝5時半に起きて、ガラガラの山陽本線に揺られながら見ていた朝日は、今でも私の脳裏に鮮明に焼きついています。高校野球でも、初めて背番号をもらった時の喜びやエラーしてメンバーを外された悔しさなどたくさんの思い出があります。中でも高校2年の夏に県大会ベスト4やその後の秋季大会でベスト4となり、本気で甲子園が狙える位置まで勝ち進んで野球ができたことはとても幸せなことだったと思います。甲子園出場は叶いませんでしたが、甲子園出場を目標に駆け抜けた3年間は、かけがえのないものとなりました。
最後に大学野球です。高校野球が終了した時点から、大学ではサークルではなく部活動で野球がしたいと思い、文武両道が実現できる準硬式野球部を選びました。大学1年生の冬、私の野球人生で転機が訪れました。私はこれまでの人生、スイッチヒッターとして野球を続けてきました。しかし歳を重ねていくたびに、右打ちが自分の思い浮かべたスイングができなくなっていました。そして立教大学との練習試合の時、私は右打席に立ちました。真っ直ぐが3球来るとわかっていた打席で、ど真ん中の真っ直ぐを3回空振ったのです。そこから私は右投左打として現在まで野球を続けています。
ここまで野球を続けてこられたのは、両親の支えや多くの仲間たちの支えのおかげです。本当にありがとうございます。皆さんのおかげで、野球を嫌いになることなく、幸せな野球人生を送ることができました。残り4ヶ月全力で駆け抜けて、後悔なく最後まで楽しみます。応援よろしくお願いします!