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2024

【俺の野球史⑯】

引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。

最終回は、主務の宮﨑 玲太が綴った野球史です。

ぜひご覧ください。


(全16回)

俺の野球史⑯


○宮﨑 玲太(スポ4/主務/修道)


「恵まれた野球人生」


私は生まれると同時に野球をするという選択肢しかなく、小学3年生の時に広島西リトルリーグに入団しました。チームの練習は週末しかなかったものの、平日には祖父と毎日暗くなるまで練習するなど、人生の中で最も体力的に厳しかったと記憶しています。基本的に結果を出しても、出さなくても、父親や祖父から褒められることはなく、練習や試合後に帰宅するまでの父親と2人きりの車内はとても憂鬱でした。ですが、真剣に練習していたこともあり、人生の中で最も野球が上手かったのは小学生の時だったと思います。先日の中澤 勇之助(商4/金光学園)の野球史では私のチームに敗戦したと書いてありましたが、私は彼のチームと対戦した記憶は残念ながら1ミリもありません。ありがたいことにチームメイトにも恵まれ、小学6年生の時には全国3位を経験することができました。


それなりに結果を出してきた小学生時代でしたが、野球を楽しいと思ったことはあまりなく、自由に野球をしたいという思いから、中学受験にて進学した修道中学校の野球班(修道中・高では部でなく、班と呼びます)に入りました。これまでの環境とは大きく変わり、中学から野球を始めた人も多かったため、早くから試合にも出場し、のびのびと野球をすることができました。学校外でのランニングをサボったことでメンバーを外されたり、顧問が男子校以外では確実に問題となるようなことを平気で練習中に発言したりしていたことは今では良い思い出です。ですが、中学生の時に真剣に練習をした記憶はなく、次第に技量の低下を感じ始めていました。とはいえ父親の監視の目から外れたいという思いで学校のチームに入ったため、今更父親にアドバイスを求めることができないという状況であり、気づいたら中学野球は終わっていました。



そのまま修道高等学校に進学しました。そして、父親と同じく甲子園に出場するために高校でも野球班に入りました。ですが、入部早々に肘を怪我し、半年間ノースローの時期がありました。この時に父親と福岡の病院まで行ったり、広島の病院で長時間待ったりしていたことで、野球についてコミュニケーションを取る機会が増えました。ここで父親が純粋に応援してくれていることを感じ、高校では自らアドバイスを求めるようになりました。すると少しずつ結果も出始め、自分の中でも手応えを感じていました。


しかし、コロナウイルスの影響で最後の春季大会は中止になり、夏の大会は独自大会となりました。やるせない気持ちでしたが、野球人生の集大成という思いで独自大会に臨みました。初戦の相手はいわゆる古豪でした。試合前のアップでは対戦相手と同じ場所でしたが、全員5厘刈りの相手にチーム全員が怖気付いていました。ですが、いざ試合が始まると、観戦していた人全員を裏切るような善戦をしました。私自身も高校野球人生最後の打席にて一時勝ち越しとなる、ホームランを放つことができ、後悔のない試合をすることができました。試合後に父親や祖父など多くの人に褒めてもらい、野球人生の集大成としては申し分のないものであったと感じていました。


高校野球引退後は勉学に励み、早稲田大学に運よく合格することができました。大学でも野球を続けるかは悩みましたが、野球をできない時期が続いたことやコロナ禍により高校野球が完全燃焼とは言えなかったことで、大学でも野球をしたいという思いが強くなり、早稲田大学準硬式野球部に入部することを決意しました。


大学入学後は、今振り返ってみても、思うようにプレーすることができない時期が大半であったように感じます。肩を怪我したり、ダッシュで肉離れをしたりと多くの怪我をしました。その中でも2年次の秋季木村杯ではスタメンで出場することができましたが、思うような結果を出すことができませんでした。この試合で味わった悔しさを胸に2年次の冬季練習に励み、3年生からは活躍するという強い気持ちを持っていました。


しかしながら、2023年3月4日に事件は起きます。この日は毎年恒例のBチーム早慶戦が日吉台で行われていました。サードのスタメンとして起用していただき、迎えた3回裏です。なんだか長いイニングの中、飛んできたサードライナーが見えず、気づいたらグラウンドに倒れていました。この時にご迷惑をおかけした慶應義塾大学準硬式野球部の皆様、大変申し訳ございませんでした。救急車で運ばれ、診断結果は顔面多発骨折と言われました。この診断結果が出るまでの長時間待っていただき、自宅まで送迎していただいた西村さん(令和6年卒=早稲田実業)、蒲原さん(令和6年卒=神戸)、藤原(スポ4/南山)には感謝しかありません。帰宅途中に食べたラーメンは血の味しかせず、あまり味を楽しむことはできませんでした。ご馳走してもらったのにすみません。その後、怪我して6日後には手術をし、怪我した部分を固定する2枚のプレートとは一生涯をともにすることとなりました。


私はこの怪我を機に、選手を引退し、スタッフ業に専念しました。選手を引退するにあたり、家族や監督、コーチの方々にご相談させていただきました。簡単な決断ではありませんでしたが、この決断をしたことに後悔はありません。3年次には六大学連盟の学生委員長として貴重な経験をさせていただきました。ご協力いただきました連盟役員の皆様、各大学関係者の皆様、ありがとうございました。最終学年では主務となり、各種行事の手配や手続き等を主に行なってきました。チームの勝利に直接貢献することはできませんが、練習中にマシンにボールを入れたり、ノックを打てたりしていることを幸せに思います。新チームになって初めての公式戦である関東選手権では思うような結果が出ず、幹部としてどうすれば良いのか考える時間が多くありました。そんな中で迎えた春季リーグ戦は苦しい展開も多くありながらも、粘り強く戦い、完全優勝という結果を達成できたことを誇りに思います。その後の予選会でも苦しい展開でしたが、全日本選手権の出場権を獲得し、やっとスタートラインに立つことができました。


私は小学3年生に野球を始め約14年間、本当に恵まれた野球人生を送ってきました。ここに至るまでに多くの仲間と出会い、多くの指導者の方々にお世話になりました。そして家族には多くの迷惑をかけました。いよいよ本当の野球人生の集大成となります。必ず2019年以来の日本一の座を奪還し、お世話になった方々に恩返しをしたいと思います。そして、秋季リーグ戦でも優勝し、笑顔で同期と引退したいと思います。

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