引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。
第11回は、小松崎 響輝が綴った野球史です。
ぜひご覧ください。
(全14回)
俺の野球史⑪
○小松崎 響輝(社4/内野手/文京)
『16年の野球道』
令和の少年が大谷翔平に憧れるように、当時6歳だった私は読売巨人軍のラミちゃんこと、アレックス・ラミレス選手に憧れ、野球を始めました。16年続く野球生活のはじまりです。
小学校では兄と同時に、地元の野球チームに入団。そこからは土日は練習や試合、平日ではどこへ行くにもグローブを持参、とにかく野球が大好きでした。入団当初、おじいちゃんコーチからの『君、センスあるねえ』という言葉は今でも忘れません。
初めての試合、一塁ランナーだった私(6)は、牽制で刺され、大泣きしたことを覚えています。攻守交替ではスキップしながらベンチに戻ってくるなど、我ながら可愛い一面を見せていました。そんな私も6年生になると、キャプテンを務めることとなりました。最後の大会の決勝戦、親にホームランを宣言をした打席で、見事有言実行し、優勝を飾ることができました。
中学では部活とクラブチームの両方に所属し、ここでも野球漬けの日々を送りました。部活では、3年連続区3位に留まるも、キャプテンとして沢山の経験をしました。中でも印象的なのは、半グレたちのお世話です。試合中の帰宅、新品バットの盗難、選手同士の蹴り合い、と手に負えない状況でした。そんな中でも見事なリーダーシップを発揮したことで、卒業時には「響輝がキャプテンでよかった」と思ってもらっていたはずです。クラブチームでは、今でも応援してくださる恩師や3年間バッテリーを組み続けた相棒との出会いがあり、振り返ると今でも、人生における重要な時間だったと思います。東京都大会では優勝を逃すも準優勝を果たすことができました。
高校では縁もあり、都立文京高校への進学となりました。3三振という苦いデビュー戦とはなるものの、1年秋には初の公式戦で初安打を記録しました。2年春には背番号5番を勝ち取りましたが、新型コロナウイルスにより大会中止。幻の1桁となってしまいました。秋春の両大会での初戦コールド負けを乗り越えた3年夏の大会では、ベスト32という結果にはなりましたが、3年間必死な思いで積み重ねてきた練習の成果を出せた高校最後の大会でした。
悔しい思いを抱えつつも、受験に合格し、準硬式野球部への入部を決意しました。実は、野球サークルと迷っていたところ、体験時に都立高出身という共通点があった長岡(スポ4/豊多摩)から、「待ってるよ」という声をかけてもらったのが決め手だったりしています。同学年には投手が0という事実から、投手への挑戦を決意しました。笹森(教4/早稲田実業)の優しさからか、1年秋には投手が1人増え、互いに切磋琢磨し合い、新人戦を迎えました。1回戦vs東大では、自分のせいで負けてしまうのではないかと足が震えていましたが、同期のおかげで何とか勝つことができました。続く慶應戦、前回よりは良かったものの、5回届かずに降板。悔やまれます。同期は褒めてくれたけれど、納得のいく投手にはなれないまま、野手へのコンバートを決めました。
そして4年生になりました。8月には全日本選手権が控えています。色々あったけど、同期がみんなで良かったと思っています。最後このメンバーで最高の思い出をつくりたいので、この夏、全員で優勝して帰ってきます。
野球を続けてきた中で多くの出会いがありました。生涯にわたって、この繋がりに感謝したいと思います。