引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。
第10回は、堀口 大紀が綴った野球史です。
ぜひご覧ください。
(全14回)
俺の野球史⑩
○堀口 大紀(国教3/外野手/Parkland High School)
※9月入学のため、今シーズンをもって引退
『走り続けた14年間』
私の野球人生はアメリカのペンシルバニア州という異国の大田舎から始まりました。当時、アメリカで唯一見れた日本のテレビがNHKでした。そこで放送していたアニメメジャーの茂野吾郎に憧れ、小学校2年生で野球を始めました。アメリカではボールを投げて捕れるだけで褒められたので自然と野球が好きになりました。
小学校4年生の時に日本に帰国することになり、坊主にしなくていいという理由で東京日野リトルリーグに入団しました。当たり前に自分が1番上手いと思っていた私にはとんでもないカルチャーショックが待っていました。1日練習や指導者に怒鳴られることがショックすぎて、体験会から泣きながら帰ったのを覚えています。日本の野球と文化を叩き込まれ、練習することを初めて学んだ私は必死に練習し、6年生で主将になりました。今振り返ると、この少年野球の経験が私の野球人生での転機でした。
中学生になると町田ボーイズという強豪の野球チームに入団したのですが、辛すぎてあまり記憶がありません。中学校2年生でアメリカにまた引っ越すことになった時には本当に嬉しかったです。ちなみに公立の中学校でオール3をとってしまうほど勉強はだめでした。
高校生になり、地域のマンモス校のパークランドハイスクールに入学しました。準硬界では私1人でこの高校の知名度を上げられたと思います。この高校ではいけないものに手を出してしまう学生からハーバード大に進学する学生まで、幅広い人と共に授業を受けていて、充実した毎日を送れました。野球部は州の中でも強く、なんとかスタメンで出続けてイチローと呼ばれていました。(野球が上手いわけではなく、アジア人だから)
MLBのフィリーズの2軍の球場でヒットを打った時は野球選手としての夢がほぼ叶いました。
大学の進学先は凄く迷いました。皆さんに信じてもらえないと思いますが、当時アメリカの大学二校から野球推薦を貰っていました。そのため私は日本に戻る気はなかったのですが、親の勧めと金銭面の理由で早稲田大学に進学しました。準硬式野球部に入部し、同級生だけでなく先輩や後輩とここまで熱く、楽しく野球ができる環境は私にとって幸せなものでした。今考えると最高の決断だったと本気で思います。
14年間と長い野球人生でしたが、常に心身共にサポートしてくれた親のおかげで野球を続けることができました。また、素晴らしい指導者の方々にも恵まれました。野球人生関わってくれた全ての人に感謝したいです。個人としては華やかな成績を残せませんでしたが、最高のチームメイトに出会うことができて、それが私の1番の財産です。引退した時のことを考えると、同期や後輩に会えなくなることが1番寂しいと思います。残された時間を大切にしながら、今年1年間頑張り続けてくれた井上主将(スポ4/栄東)含め幹部の同期のためにも全日本選手権に向けて全力で走り続けます。