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2024

【俺の野球史⑤】

引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。

第5回は、髙橋 浩成、松永 賢三が綴った野球史です。

ぜひご覧ください。


(全16回)

俺の野球史⑤

○髙橋 浩成(教4/投手/早稲田実業)


「有終完美」


私は、小学校低学年の頃は週一回のポルテというベースボールスクールに通っていました。4年生になって本格的に地元の少年野球チームに入ることになりました。きっかけは、祖父と近くの小学校に遊びに行った際、そこで練習していたチームに声をかけられて練習に参加したことです。そこで、みんなでやる野球の面白さを感じチームに入ることになったのが私の長い野球史のスタートでした。


少年野球では、自分の学年が1人しかいないという状況で、6年生になった時には私の父が監督を務めました。自分の父親が監督やコーチになったことがある人はわかると思いますが、当時は絶望的な状況でした。最上級生が1人しかいないので怒られるのはもちろん私です。泣きながら練習をし、泣きながらマウンドに立ち投げ続けました。怒られてグラウンドからいなくなり、自宅の裏道で泣いていたというプチ失踪事件まで起こしたことがあります。もちろん父は、私に野球に上手くなって欲しいという思いで愛の鞭を叩き込みました。そのおかげで私の気持ちの中で強い土台作りができたので今では感謝しています。ありがとう。


中学生になり、少年野球の先輩方が何人も所属している相模原西シニアに入団しました。土曜に午前授業があるので、父が学校まで迎えにきて国分寺からシニア練習場所の山梨まで送ってくれました。自分が運転できるようになって感じたのは父の体力がとてつもないということです。しかし、この土曜授業があったためなかなか試合に出してもらうことができないという悔しい状況でした。土曜授業があるだけで試合に出させてもらえないというのは納得がいかず、そこから毎日素振りをし実力で認めてもらえるように手の皮がボロボロになるまで素振りをしました。結果、その努力が実を結びスタメンを勝ち取ることができました。チームの成績では、あと一勝できれば関東大会出場というところで秋大会・春大会どちらも負け、夏の大会では初戦負けという悔しい結果に終わってしまいました。しかし、タイブレークの試合を何度も経験するという珍しい経験もできました。


高校に入ると下級生の頃は、まず監督さんに名前を覚えてもらわなければ試合に出してもらえるわけがないと思い、どうにか名前を覚えてもらえるように努力していましたがなかなか覚えてもらうことはできていませんでした。しかし、ある日監督さんから「髙橋!」と呼ばれ何事かと思い監督さんの元へ向かうと、「このマウンド(ブルペン)の芝が枯れそうだから水あげて生やしてくれ」と言われました。私は、こんな絶好な機会はないと思い、それから一塁側ブルペンの芝を育てることにしました。意外と芝が元気になるのには時間がかかりましたが、綺麗な緑が生えてきたところで監督さんから「髙橋、ちゃんと芝綺麗に生えてるじゃないか」と褒められたことを今でも覚えています。そこから、名前を覚えてもらうことに成功し、実践練習に入れてもらったり試合に出させてもらう機会が回ってくるようになりました。そこで、私はどんなことでも職務を全うすることが成功への近道であることを学びました。とは言っても、試合に出させてもらってその僅かなチャンスをものにすることはできませんでした。いよいよ、自分達の代になったと思った秋季大会は諸事情で大会辞退、春・夏はコロナウイルスの影響で思うように大会ができませんでした。私は、高校野球という舞台で燃え尽きることができなかったので大学でも野球を続けたいと思っていました。そこで、高校の時に仲の良かった西村さん(令和6年卒=早稲田実業)達が所属している準硬式野球部があるという話を聞き入部を決定しました。


入部してからは、2年生の時からベンチ入りさせてもらい試合で投げさせてもらう機会も増えました。2年生では清瀬杯優勝、3年生では全日本選手権出場・秋季リーグ戦優勝と上級生に勝つことの喜びとそれまでの道のりの大変さを教えていただきました。3年の秋季リーグ戦から今に至るまでなかなか思うような結果を残すことができていません。時間というのはあっという間に過ぎてしまうもので、私の野球人生も残りわずかになってしまいました。本気でできる最後の野球を、今までやってきた13年間の野球人生の集大成として締めくくれるように全身全霊で取り組んでいきます。

○松永 賢三(スポ4/外野手/早稲田実業)

  「早稲田を知る」


私は生まれてすぐ兵庫県の西宮に引っ越し、毎週のように自転車で甲子園に行き、野球観戦をしていました。そして4歳になった頃、母校の大先輩である斎藤佑樹さんが甲子園で優勝して、早稲田実業に入りたいと思い東京に戻り、早稲田実業学校初等部に入学しました。1年生から3年生までは父と会社の同僚の人たちと週末にキャッチボール程度の遊びをしてましたが、4年生の時に地元の野球チームに入りました。入部からずっとファーストを守っていましたが、あまりにも下手くそ過ぎて監督にしごかれ続きの日々でした。しかし、最後の大会では決勝でサヨナラホームランを打ち、町内新聞で一面を飾るなど、いい思い出もありました。


 中学は早稲田実業学校軟式野球部に入部しました。同期の藤澤(社4/早稲田実業)と小峰(社4/早稲田実業)とはここで出会いました。当時はピッチャーと外野の二刀流をしていましたが、投手としてはあまり結果を残せず、最後の都大会では赤羽岩淵中の主軸に中学軟式では考えられない程の柵越えホームランを打たれ最後の夏を終わらせてしまいました。今でも藤澤には恨まれています。また、コーチに、自分一人だけ毎回試合後に走らされたりなど、正直中学が一番しんどかったです。


 高校は早稲田実業学校野球部に入部し、村上(商4/早稲田実業)、空閑(社4/早稲田実業)と出会いました。「バッティング練習がしたい」という理由だけで野手になろうとして、お前舐めてるのかと怒られ高2までピッチャーをしていました。しかし、投げ方を見失ってしまい、本気で野手転向を決意しました。高3の春、夏共にメンバ一入りしましたが、コロナウイルスの影響で甲子園の道は閉ざされ、不完全燃焼で高校野球は終わってしまいました。ちなみに毎年留年濃厚だったので、和泉監督と野球の話をした記憶はありません。


 大学は、野球部か準硬式野球部か少し迷いましたが、早稲田実業の先輩方の話を聞いて準硬式野球部に入ることを決意しました。レベルの高さを体感したのは1年秋の初めてリーグ戦で、法政大学の西村投手に手も足もでなかったことを今でも覚えています。そこからトレーニングや練習に励み、ほんの少しではありますがチームに貢献することができたのではないかと思います。3年の時には、甲子園大会の選抜メンバーに選出され、高校時代叶わなかった甲子園の素晴らしい景色を見ることができました。最後の全日本選手権がやってきますが、日本一を取って、残り僅かの準硬生活を頑張りたいと思います。


 準硬に入って素晴らしい仲間と出会い、準硬を通じて色んな大学の人と親を深めることができました。準硬式野球部に入ってよかったです。気づけば人生の7割共に過ごし、野球をしてきた平尾(教4/早稲田実業)、浩成(髙橋 浩成/教4/早稲田実業)。こんな出来損ないの自分ですが、一緒に野球出来て幸せです。16年間ほんとにありがとう!


6歳の自分へ

 君は早稲田実業に入って大学卒業までの16年間を無事駆け抜けることと思います。(留年しなければ。)長いようで一瞬でした。同じ仲間と過ごし、家族や周りの人に支えられてここまで来れました。優秀な小学校に入れて期待に満ち溢れていると思うけど、残念ながら大学生になっても脳みそは変わりませんでした。諦めてください。

 でもこれだけは約束です。野球を愛してください。君の人生が素晴らしいものに変わります。

僕はあと少しで16年お世話になったWASEDAのユニフォームを脱ぎますが、生涯早稲田を、野球を愛し続けます。

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