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2025

【俺の野球史①】

本日より、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。

第1回は、塩尻 真生が綴った野球史です。

ぜひご覧ください。


(全14回)

俺の野球史①


○塩尻 真生(文4/副将・外野手/早稲田実業)


『野球漢』


始まりは幼稚園年長のときでした。元々外で体を動かすのが大好きだった塩尻少年は、野球に魅了されすぐに友人と地元のチームである、ナンバーワンプレイヤーズに入りました。試合には勝てないものの、楽しかったです。友人は気が付いたら辞めていましたが、もっと本格的に野球がしたくなったことから、武蔵府中リトルに入りました。レベルは高かったのですが、素振り300本、ランニング3km、柔軟体操を泣きながら毎日こなしたからか、上級生の試合に参加し、全日本優勝も経験しました。順調に自分の代でも大会優勝を経験することができ、まさにガタイ通りのわんぱく野球少年だったことでしょう。


中学生は武蔵府中シニアに入りました。芸術的なランニング練習は今でも覚えています。(一日中やっていた日もありました。)足に重り・1kgバットで練習していたのが良い思い出です。厳しい練習ですが、何とか耐え背番号1桁を貰い、クリーンナップを打つも、紹介により東京青山リトルシニアへ電撃移籍。真っ白なボールを真っ暗になるまで追いかけ、真っ白なユニフォームを真っ黒になるまで練習した日々は楽しかったです。ほふく前進とタイヤ押し・土嚢ダッシュ、毎食米1kgは私をムチムチにしました。仲間と共に汗を流し、夜遅くまで自主練したことはとても良い思い出です。


そして、早稲田実業の硬式野球部に入部しました。プロ野球選手になるつもり満々でしたが、現実は甘くなかったです。怪我でボールも投げれない日々、打撃だけは一丁前に飛ばしてました。しかし、ついに高校3年間で背番号を貰うことはなかったです。(西東京には左投手が多く、左打者の私は必要なかったそうです。)不貞腐れ、室内練習場で打撃練習とバレーボールの毎日でしたが、練習試合では場外弾を打ち、日吉での早慶戦引退試合ではヒットを打って高校野球は幕を閉じました。


大学では、野球を辞めるか真面目に野球部で再チャレンジの2択でしたが、もう一度本気で野球に向き合うために第3の選択肢が現れ、準硬式野球部に入部。1年の秋季リーグ戦からメンバー入りを果たすことができ、2年生の春からスタメン出場。関東選手権で3ホーマーという輝かしい結果を残しました。しかし、空回りすることばかりで、春季リーグ戦では中盤から全く打てずスタメン剥奪、2年秋の新人戦で主将を務めるも、最終回に皆が必死に繋いでくれたチャンスで凡退しチームは敗戦。さらに、試合中に手を骨折とさんざん迷惑をかけました。見捨てないでくれたチームメイトには感謝しかありません。

骨折も治り、迎えた3年の関東選手権は原因不明の腹痛で試合に行けず、チームは敗戦。自分が情けなくて、絶対に春季リーグ戦では上級生の力になると決めました。結果としては、打率5割で首位打者とベストナインを獲得することができ、初めて関東JUNKOオールスター大会に出場し、3連覇も果たしました。しかし、全日本選手権は2回戦敗退。1番打者として結果を残せず、不甲斐なさで涙が止まりませんでした。秋季リーグ戦も終わり、偉大な先輩方が全員引退し、最上学年となりました。

今年度から副将の役割をいただきましたが、副将として私はチームのために何か出来ているでしょうか?役に立っているのでしょうか?皆を引っ張っれていますか?この代が終わった時に教えてください。自分の中では全然力になれている気がしません。周りに助けられてきてばかりです。なので、全日本選手権では大暴れしてみせたいと思います。チームを勇気づける一打を放ち、得意の守備で投手を助け、足で掻き乱し、チームを勝利に導きたいです。

「最後に笑顔で終わる」と今年の目標で書き残しました。チームのために自分の経験全てを全日本選手権で出し切ります。


最後になりますが、自分がここまで野球を続けてこれたことは当たり前ではありません。親を始め、コーチや監督、恩師、仲間のみんなに支えられて約15年間野球を続けてこれました。

自分にとって野球は色んな縁が繋いでくれた、最高のプレゼントです。本当にありがとうございました。最後まで塩尻真生らしく突っ走っていきます。

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