引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。
第3回は、島津 大我が綴った野球史です。
ぜひご覧ください。
(全14回)
俺の野球史③
○島津 大我(社4/捕手・内野手/早稲田大阪)
『コズミックブラスター誕生秘話
〜BIGBANG野球人生〜』
小学生の低学年、私はキャプテン翼もびっくり、ハーフナーマイク選手、本田圭佑選手に憧れるサッカー小僧でした。アニメのような2次元必殺技を繰り出しながら得点を決めまくっていたその最中、私が野球を始めたきっかけは、幼なじみに今チームに来たら試合に出られるという声掛けでした。そうして野球という競技へ足を踏み入れた私は、当時何かを投げるということも無知であったため、肩力も乏しく外野から、アームストロング船長率いるアポロ11号をも凌駕する宇宙開発を頻繁に繰り返しており、その姿はまさに“コズミックブラスター“。そんなこんなで、伝説の幕開けが終了し、中学受験にも失敗した何も残らない男は、京都市立蜂ケ岡中学校に進学します。
実力が伴わないにも関わらず、レベルの高い環境で野球がしたいという何とも厚かましい理由でしたが、京都の名門古豪(だと私は自覚しています。)京都嵐山ボーイズに所属します。その当時は一塁を守り、自慢の奥義コズミックブラスターを封印してきました。私たちの代になり、主将に任命された私は、季節問わず早朝から坂道を含む4kmのランニング、ミスをすれば走らされる地獄の環境、主将の重圧との格闘で、ストレス性円形脱毛症を発症しました。みるみるうちに広がるハゲが恥ずかしく胸が痛んだのを今でも鮮明に覚えております。そんな中、春の全国大会京都府予選、夏の選手権大会京都府予選にどちらも決勝で敗れ、主将として結果を出すことができない日々にメンタルも崩壊寸前でした。いや、既に崩壊していたかもしれません。しかしながら、その雪辱を果たすべく臨んだ中学生最後の2大関西大会はどちらも優勝で連覇を飾り、私の主将としての中学野球は幕を閉じます。あの時、主将として宙を舞ったあの感覚は一生涯忘れません。
中学時代の同期が数々の甲子園常連校に進学を決める中、瀧澤 憲登様(令和7年卒=早稲田大阪)を排出した早稲田大阪高等学校になぜか特待生として進学します。ここでは最初、一塁手として硬式野球部に入部するも捕手へとコンバートしたことで、私のコズミックブラスターが浮き彫りとなり火を吹きます。とにかく食べてウェイトトレーニングをすればとりあえず野球は上手くなるだろうという何とも安直な考えでみるみるうちに体は太り、そのくせなぜか打撃には自信があったので、なんちゃってスイッチヒッターとしてダイヤモンドを掻き回していました。中学時代の同期5人が甲子園出場を決め、私は何をしているんだと自問自答を繰り返すメンヘラ思考もなんのその、当時は学業成績と部活動の両立に悪戦苦闘していたのをよく覚えております。春季大阪府高校野球大会ではベスト8入りを果たし、夏のシード権を獲得するも夏の選手権大阪府大会ではまさかの初戦敗退。私の高校野球は終始何をしているんだろうというまさかの誰も予想しなかった劇的な幕切れで呆気なく終了します。
高校野球での不完全燃焼から沸き立つ雪辱を果たしたいという思いや、プロの世界で活躍する幼なじみの影響、仲の良かった中学同期がレベルの高い大学野球に挑戦する現実に感化されて、準硬式野球部への入部を決意しました。ここで偉大な先輩方と出会い、大学野球のレベルの高さを痛感しました。それでも様々なバックグラウンドで個性溢れる、いやもはや溢れすぎてどうしようもない同期がいてくれたからこそ私の野球人生は華やかで、幸せなかけがえのないものになっています。大学野球並びに野球人生の集大成、早稲田7年目の今年、来たるべく全日本選手権で愛情洪水状態の同期と愛おしくてたまらない後輩達と、一緒に頂点の景色を見て、池田監督を意地でも漢にします。それこそが私のできる、野球を始めさせてくれた両親や小中時代の恩師、高校時代の先生など、お世話になったすべての方々に向けた最善の恩返しであると確信しております。
段々と私の目頭が熱くなり、溢れ出しそうになってきましたゆえ、私の野球史のご紹介はこの辺りで。ご愛読誠にありがとうございました。