引き続き、4年生が自身の野球人生を振り返って綴った野球史をご紹介いたします。
第5回は、笹森 雅弘が綴った野球史です。
ぜひご覧ください。
(全14回)
俺の野球史⑤
○笹森 雅弘(教4/外野手/早稲田実業)
『仲間と共に歩んだ野球人生』
小学4年生の時に同じマンションの幼なじみにTボール大会の助っ人に呼ばれて参加し、バットという道具を使ってボールを打つ野球の楽しさに魅了され、貫井ジュニアーズに入団しました。私の学年は9人しかおらず、後輩の力を借りて試合をしていました。コツコツ努力をすることは苦手でしたが、たくさん試合をして楽しく過ごしていました。中でも予告ホームランを打ったことは1番の思い出かもしれません。
中学生では小金井リトルシニアに入団しました。塩尻(文4/早稲田実業)が所属していた武蔵府中シニアには到底及びませんが、私のチームも代々ランニングを重んじる文化があり、毎年夏合宿の初日は足が揃うまでという名目で長時間走っていました。ちなみに私の代の時には過呼吸を起こして倒れたことも今となっては思い出話です。また挟殺プレーのランナーをしていて鼻にボールが当たり鼻を骨折、ロングティーのトスをあげていたら肩に打球が直撃し、亜脱臼など数多くのアクシデントにも見舞われました。周りは市の選抜選手ばかりの中であっても、チームへの貢献度や練習姿勢なども評価していただき、下級生でAチームに入れていただいたことや選手間投票で副主将にも選んでいただいたことは今の私を形作るきっかけになったと思っています。
高校では、早稲田実業の硬式野球部に入部しました。下級生の頃は学年の連絡係になったり、当時は選ばれし者しか任せられないと思っていた試合のアナウンスをしたりという日々を送っていました。また下級生の時に1度だけメンバーの紅白戦に入り、直後のシートノックでエラーをして終わったらメンバーから消えていたことがありました。私の代ではプレイングマネージャーにつかせていただき、選手として活躍することを目指しながらマネージャー業も行っていました。そんな中、冬のラントレ中に腰を痛め、授業も教卓の向かいに教卓を置いて立って受けるという状況で3,4ヶ月野球ができない日々が続きました。それ以降はマネージャーに専任し、助監督として公式戦のベンチに入り、外野のシートノックを打っていました。
大学では、選手として活躍したいという思いで準硬式野球部に入部しました。外野手として入部したものの、私たちの学年は投手がいないという稀有な状況にも直面し、投手に挑戦し夏は小松崎(社4/文京)と共に日々ウエイト場で涼むという怠惰な1,2年生を過ごしていました。一方で、新人戦、A戦に投手として出場したことは思い出になっています。新人戦が終わり、投手として限界を感じた私は野手に再転向しました。成人式がある日の午前中の紅白戦でホームランを放ち、初めてAチームに入りました。しかし関東選手権のメンバーには入れず、様々な怪我も重なり、Bチーム生活に戻ってしまいました。怪我をする度に数多くのトレーナーの方を淘汰してきた私の体は、4年生になっても言うことを聞かず、浜松合宿まで野球ができる状態ではありませんでした。加えて練習復帰した直後には、ノックでファーストを守っていた際に打球がイレギュラーして口元を直撃。唇裂傷と前歯1本脱臼という大怪我を負い、関東選手権のメンバー入りは絶望的に思われました。しかし、復帰初戦で途中出場ながら2打数2安打3打点の大暴れ。データ班長も兼任しながら関東選手権のメンバーに滑り込み、スタメンとして起用していただきました。リーグ戦でも出場機会をいただきながら悔しい思いもしましたが、チームとしては優勝を果たし、野球人生で1番幸せな経験をさせていただきました。
さて、私の野球人生も残すところ全日本選手権と秋季リーグ戦だけとなりました。チーム井上発足以降、「日本一」を強く掲げてここまで歩んできました。ここに到るまで、私がどれだけチームに貢献できていたか正直分かりませんが、これまで私の野球人生に関わってくれた多くの方々への感謝を忘れず、全日本選手権では悲願の「日本一」を達成し、秋季リーグ戦も最高の形で終えられるように、データ班長としても選手としてもより一層精進します。